愛国婦人会の創立者。肥前国唐津生れ。東本願寺派釜山海高徳寺住職の娘。男装で萩藩に使いし,尊王攘夷運動に加わる。福成寺住職大友法忍と死別後,1870年(明治3)藤田東湖の門下生鯉淵彦五郎と再婚。維新後は征韓論を主張して夫と主義を異にし,2女1男を連れて離婚。布教のため朝鮮に渡り,96年光州に養蚕・農業指導の実業学校を設立。北清事変で戦争の悲惨さを目撃し,傷病兵の救護,遺家族救済の事業を興す必要を痛感し,対露主戦派の近衛篤麿や華族婦人の援助を得て,1901年愛国婦人会を創立。会発展のための全国各地方支部遊説の途,04年大分市の演説会場で喀血(かつけつ)。日露戦争が勃発するや病身をおして渡満し,愛国婦人会の活動の先頭に立った。
執筆者:塩田 咲子
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(高橋富子)
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愛国婦人会の創立者。弘化(こうか)2年5月3日肥前(ひぜん)国(佐賀県)唐津(からつ)の寺家に生まれる。勤王家の父の影響で尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に参加。1887年(明治20)離婚後政治に傾倒、唐津開港問題などに関与し、日清(にっしん)戦争後には朝鮮の光州(こうしゅう)で実業学校を経営した。1900年(明治33)の義和団(ぎわだん)事件に際し戦地を視察、軍人遺族の救護こそ婦人の務めと痛感し、1901年愛国婦人会を発起した。以後、組織づくりに奮闘し同会を飛躍的に発展させたが、病のため1906年郷里に隠退、翌明治40年2月7日死去した。
[阿部恒久]
『大久保高明著『奥村五百子詳伝』(1908・愛国婦人会)』
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… 以後,林芙美子原作《泣虫小僧》(1938),阿部知二原作《冬の宿》(1938),伊藤永之介原作《鶯》(1938)など一連の〈文芸映画〉のなかで,暗い時代の日本の庶民像を描き出していった。愛国婦人会を創設した明治の女傑の半生を描いた伝記映画《奥村五百子》(1940),ハンセン病療養所で献身する若い女医の実話をリリカルなヒューマニズムで描いた《小島の春》(1940)などをへて,戦後も丹羽文雄原作《女の四季》(1950),森鷗外原作《雁》(1953),有島武郎原作《或る女》(1954),室生犀星原作《麦笛》(1955),織田作之助原作《夫婦善哉》(1955),谷崎潤一郎原作《猫と庄造と二人のをんな》(1956),川端康成原作《雪国》(1957),志賀直哉原作《暗夜行路》(1959),永井荷風原作《濹東綺譚》(1960)と〈文芸映画〉の系列がある。 女を多く描き,フェミニストともいわれたが,そのフェミニズムは,女の美しさよりも無知や貪欲さを凝視する目のきびしさと執念に特色があるといわれる。…
…兵士の慰問,遺族救護の目的で,1901年に創立された婦人団体。北清事変の際,慰問使として従軍した奥村五百子が主唱し,皇妃を総裁に,軍部や内務省に後押しされて上流婦人を組織した。創立趣意書は下田歌子が起草。…
※「奥村五百子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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