奥浦(読み)おくうら

日本歴史地名大系 「奥浦」の解説

奥浦
おくうら

[現在地名]海部町奥浦

鞆浦ともうらの西に位置し、北を海部川が東流する。「阿波国風土記」逸文(万葉集注釈)みえる「奥湖」を奥浦に比定する説があり、承平五年(九三五)一月二三日頃に紀貫之が寄港したのは(土佐日記)、この奥浦である可能性があるという。文安二年(一四四五)の「兵庫北関入船納帳」に「ヲク海部 榑百四十石〆 太郎兵衛 二郎三郎」とみえ、海部を船籍地とする船舶が兵庫北関に同年四月に入港している。翁物語(徴古雑抄)禅僧ぜんそう山の材木を伐採したところまれなる大木があったため、奥浦町人に入札を求めたところ望む者もなかったので、当地の材木問屋が江戸へ積回して売ることを奉行所に進言したと記される。天正年間(一五七三―九二)頃から元和七年(一六二一)までの間に伊予土佐和泉・大和・備前美濃の諸国などから一三名の者が谷間・山際に家屋を建て、奥浦開発一三人衆と称されたが、寛永九年(一六三二)に徳島藩家老長谷川越前が当地の荒地を取立てることになったと伝える(「奥浦旧記」海部郡誌)


奥浦
おくうら

[現在地名]吉田町奥浦

法花津ほけづ湾と宇和島湾を分ける奥南おくな半島の突端部に位置し、西方は宇和海に臨み、東方はすじ浦・喜佐方きさがた村・南君なぎみ浦に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「奥浦 茅山有」と村名がみえる。宇和島藩領に属した。「清良記」には天文一五年(一五四六)大友宗麟の将臼杵七郎の手勢が奥浦に攻め寄せ、足軽の競合いがあったと記され、「奥浦」の地名がみえる。

太閤検地の石高は二九八石二斗七升、耕地面積の比率は田五六パーセント、畑四四パーセント。寛文検地(寛文一〇―一二年)では石高が約三〇パーセント増加し、田畑の比率は田二二パーセント、畑七八パーセントと畑の増加率が著しい。


奥浦
おくうら

戦国期からみえる福江島の浦。一五六六年(永禄九年)一月イエズス会のアルメイダ修道士が初めて五島大値賀おおちか(福江)で布教した際、オクラOcuraを訪れて信者を得たと伝えており、住民のことごとくがキリスト教徒になった湊といわれるほどとなったという(一五六六年一〇月二〇日「アルメイダ書簡」イエズス会士日本通信)。またその滞在中に教会の敷地を造成するために大値賀から騎馬二四人、鍬などの道具を携えた者一〇〇人余が派遣されてきた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の奥浦の言及

【海部[町]】より

…人口2815(1995)。中心地は海部川河口南岸を占める鞆奥地区で,純漁村の鞆浦と商業町の奥浦からなる。元亀年間(1570‐73)海部氏が鞆浦に海部城(鞆城)を築いたのがその発祥で,蜂須賀氏の阿波入国後も阿波・土佐国境の要地として重視され,奥浦は城下町として栄えた。…

※「奥浦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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