奥畑村(読み)おくはたむら

日本歴史地名大系 「奥畑村」の解説

奥畑村
おくはたむら

[現在地名]西脇市住吉町すみよしちよう

中畑なかはた村の北東に位置し、加古川の支流畑谷はたたに川最上流の村。北東は丹波国氷上ひかみ阿草あくさ(現山南町)、東は同国多紀たき味間あじま(現篠山市)、南は同郡黒石くろいし(現同上)。文永二年(一二六五)一一月三日の住吉神領杣山四至并造替諸役差定書(大川瀬住吉神社文書)に「ヲクハタ」(奥畑)比延ひえ庄の一色としてみえる。

慶長国絵図には川沿いに「奥畑」が三ヵ所記載される。寛永一六年(一六三九)幕府領(兵庫県史)、安永七年(一七七八)大坂城代牧野貞長(常陸笠間藩)(「軍蔵の古記録」小沢家文書)と変遷し、文政三年(一八二〇)三卿の一橋領となる(「一橋家領知高帳」一橋徳川家文書)


奥畑村
おくはたむら

[現在地名]垂水区名谷町みようだにちよう須磨すま西落合にしおちあい一―七丁目・神の谷かみのたに一―七丁目・中落合なかおちあい三―四丁目・緑台みどりだい弥栄台やさかだい一―五丁目・菅の台すがのだい一―七丁目・北落合きたおちあい三―四丁目・りゆうだい一―七丁目・ともおか四―五丁目

福田ふくだ川上流の丘陵地に位置し、南は中山なかやま村。摂播国境で北東は摂津国八部やたべ白川しらかわ(現須磨区)、東は同郡多井畑たいのはた(現同上)。慶長国絵図に奥畑村・奥畑がみえる。正保郷帳では田方一八五石余・畠方二三石余、芝山あり。宝永元年(一七〇四)の高二三五石余(うち溝池川欠引二七石余)、田方一三町五反余・畑方一町九反余・屋敷四反余、家数二七・人数二一〇、牛一三(「差出帳」奥畑公民館所蔵文書)


奥畑村
おくはたむら

[現在地名]防府市大字奥畑

佐波さば川の東、高黒石たかくろいし(四七九・六メートル)の北西に位置し、佐波川の支流麻生あそ川と奥畑川流域に集落が点在する山間村。北は伊賀地いかじ(現佐波郡徳地町)、西は岸見きしみ(現徳地町)、東は藤木ふじき(現徳地町)の各村に囲まれ、南は久兼ひさかね村に接する。萩藩領で三田尻宰判に属する。

慶長四年(一五九九)八月一六日付の周防国佐波郡松崎天満宮社領総目録(「寺社証文」所収天満宮社僧円楽坊文書)に「天満宮御造営領 田数八町八段弐畝拾歩 米九拾三石四升米九拾七石九斗九合 奥畑村」とあるが、同一五年の検地帳にはその名がみえない。


奥畑村
おくはたむら

[現在地名]君津市豊英とよふさ

倉沢くらさわ村の南、小糸こいと川上流最奥の谷間に位置する。南は清澄きよすみ山系の峰を越えて安房国安房郡横尾よこお(現鴨川市)へ通じ、西は上総丘陵高宕たかご山を越え天羽あまは宇藤原うとうばら(現富津市)へ通じる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳には「関畑村」(誤記か)とあり、高三二石。元禄郷帳に村名がみえる。寛永一八年(一六四一)から市宿いちじゆく村と同じく旗本曾根領。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数一二。元禄一二年(一六九九)の才真木請負証文(川俣家文書)によれば、江戸の商人らが前金六〇両を運上金として支払い、奥畑入(谷)の地頭林で栂・樅・松の才真木の生産を請負い、市場いちば・市宿の両河岸から船積みしている。


奥畑村
おくばたむら

[現在地名]豊後高田市佐野さの 奥畑・新粥しんがい

佐野村の南に位置し、はな岳北麓、西叡さいえい山西麓の丸山まるやま川上流域の狭隘な地。長禄三年(一四五九)一〇月一二日の奥畑政所弁分堺注進状(安東文書)に奥畑とみえ、奥畑境として「東ノ境宮者、山香大道ヲ限」「南ノ堺ハ尾分水ハシリ道祖神ヲ限ル」「西者遠見石」「北者長迫」などとある。江戸時代の領主の変遷は上来縄かみくなわ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳では佐野村と合せて記される。元和八年(一六二二)の走り百姓帳(松井家文書)によると、慶長八年(一六〇三)に当村の百姓一〇人が速見郡鶴見つるみ(現別府市)へ逃散している。正保郷帳では来縄郷に属し、田方六八石余・畑方二一石余、新田がある。安永三年(一七七四)の島原藩領郷村帳(島原半島史)では高九一石余、ほかに同所新田三石余がある。


奥畑村
おくばたむら

[現在地名]三重町奥畑 奥畑

だい村の南東、奥畑川上流にある。川沿いに日向道の一本が通り、旗返はたがえし峠を越える。東方に三国みくに峠がある。文禄二年(一五九三)以降岡藩領。慶長六年(一六〇一)の中川秀成知行方目録案(中川家文書)では「おく畑」は高寺たかてら村・板屋いたや村と一括され高五七七石余。慶長豊後国絵図では奥畑村とあり高一八一石余。正保郷帳では宇目うめ郷に属し、田方一一一石余・畑方七〇石余、茅山有、日損所と注記される。旧高旧領取調帳では高一三〇石余。寛文八年(一六六八)には岡藩吏熊田弥五左衛門が切支丹捕縛のため来村した(キリシタンの奇跡)


奥畑村
おくはたむら

[現在地名]加茂町大字奥畑おくばた

現加茂町最北部に位置する。伊賀街道から北に分岐した信楽しがらき街道がほぼ南から北東に抜け、石寺いしでら(現和束町)に至る。古くは南隣の口畑村一村であったと伝える(京都府地誌)山城国分寺跡(恭仁京跡ともされる)の北東にあたり、恭仁くに京と近江信楽(現滋賀県甲賀郡信楽町)を結ぶ古道(恭仁京東北道)にあたるため、古くから往来のあった地と考えられる。

承応二年(一六五三)までは津藩藤堂家知行であった(宗国史)。享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳によると、村高は九九・三石、そのすべてが例幣使料とある。例幣使料は瓶原みかのはら郷五ヵ村(奥畑・口畑・仏生寺・登大路・東)に割り当てられた伊勢・日光への例幣使参向のための費用で、計一千一〇石とされた。


奥畑村
おくばたむら

[現在地名]野津町東谷ひがしだに 奥畑

尾原おばる村の南東、ほぼ北流する吉田よしだ川流域にある。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)には奥畑村が津留つる村など四ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高七〇石余。下畑組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方四六石余・畑方二四石余。


奥畑村
おくはたむら

[現在地名]篠山市奥畑

瀬利せり村の北東にあり、はた川が流れる。東部の茶臼ちやうす山に正中年間(一三二四―二六)頃に山名氏清が築いたという奥畑城の跡がある。その後は畑氏一族が拠っていたという。古くは畑奥村(奥畑村とも)のうちで、慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に畑里村に続いて「同奥村」と記され、高八〇〇石。正保郷帳に「奥畑村」とみえ、田高一八五石余・畠高三〇石余。寛文四年(一六六四)の松平康信領知朱印状(寛文朱印留)では「奥畑村」とする。元禄郷帳では里畑の諸村が独立して記載されるのに対して奥畑村として高八一二石余と記される。


奥畑村
おくはたむら

[現在地名]洲本市奥畑

上内膳かみないぜん村の北西、せん山西麓の山間地にある。中央部を奥畑川が南東へ流れる。三原みはら郡に属する。正保国絵図に村名がみえ、高一二〇石余。天保郷帳では高一二九石余。金屋組に属した。反別戸数取調書では反別一七町九反余、高一六九石余、うち蔵入高八六石余・給知高八二石余。給人は蜂須賀駿河ら三人。家数四六・人数二三二。産土神は奥畑川左岸は上内膳村の八幡宮、右岸は庄田しようだ(現緑町)の八幡宮である。


奥畑村
おくばたむら

[現在地名]吉川町西奥にしおく

西畑にしばた村の南に位置し、米田よねだ川の上流左岸の丘陵地に立地する。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は延宝七年(一六七九)に幕府領となるまでは山上やまのうえ村と同じと推定され、宝暦一二年(一七六二)下総古河藩領となり、幕末に至る(「寛政重修諸家譜」・旧高旧領取調帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android