妙正寺(読み)みようしようじ

日本歴史地名大系 「妙正寺」の解説

妙正寺
みようしようじ

[現在地名]久留米市寺町

寺町てらまち通の東側の中央付近にある。荘厳山と号し、日蓮宗本尊釈迦如来。遠州横須賀よこすか(現静岡県大須賀町)以来有馬氏に従ってきた寺で、元和七年(一六二一)同氏の丹波国福知山ふくちやま(現京都府福知山市)からの転封に伴い、摂津国三田さんだ(現兵庫県三田市)より移転。開山は十如院日舜。寛文一〇年(一六七〇)当寺は下総国法華経ほけきよう(現千葉県市川市)を本寺とし、末寺に寺町の本清ほんせい寺・寂光じやつこう寺などがあった(寛文十年寺社開基)


妙正寺
みようしようじ

[現在地名]三原市本町

野畑のはた山南面中腹にあり、無量山正寿院と号し日蓮宗。本尊十界大曼荼羅。享保九年(一七二四)六月二八日付の妙正寺略記(「三原志稿」所収)によると、延宝二年(一六七四)三原城主浅野忠真が米田よねだ山の麓、昌寿しようじゆう(現松寿寺)の末寺無量山福寿ふくじゆ院跡地の下方黄幡おうばんの傍らに菩提寺として建立したもので、享保九年、忠義のとき現在地に移る。

寺蔵の棟札および年中格式并覚書(「三原市史」所収)によると、享保九年本堂、同一〇年庫裏建立、同一一年住持入寺、同一二年ばん神社移築、同一四年門・鐘楼堂を建立。


妙正寺
みようしようじ

[現在地名]宇都宮市大通り五丁目

宇都宮駅の南西さいわい橋の南側川沿いにある。長宮山と号し、日蓮宗。本尊十界大曼荼羅。文永二年(一二六五)宇都宮景綱の姉が日蓮に帰依し、長寿院妙正日久法尼の法号を受け、寺を開いたという。同一一年城南の贄木にえぎ宇都宮貞綱により諸堂伽藍建立、宝徳年中(一四四九―五二)中葦原なかあしはらに移転、永禄年中(一五五八―七〇)上河原かみがわらの現在地に移る(下野国誌)


妙正寺
みようしようじ

[現在地名]杉並区清水三丁目

妙正寺池の南に位置する日蓮宗寺院。法光山と号し、本尊十界曼荼羅。寺伝によれば、文和元年(一三五二)法華経ほけきよう(現千葉県市川市)三世日祐が三十番神堂を建立したのが前身と伝える。慶安二年(一六四九)三代将軍徳川家光が鷹狩の途中当寺に立寄り寺領五石と葵の幔幕を寄進し、以降御朱印寺と称され葵を寺紋とした。承応四年(一六五五)の下井草村諸色書上控(井口家文書)によると、正保年中(一六四四―四八)日明殿舎を建立(再興開山)したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「妙正寺」の解説

妙正寺

(東京都杉並区)
杉並百景指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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