宅磨派(読み)タクマハ

デジタル大辞泉 「宅磨派」の意味・読み・例文・類語

たくま‐は【宅磨派/×詫磨派/託間派】

絵仏師一派宅磨為遠たくまためとおを祖とし、鎌倉時代には京都中心の長男勝賀しょうが系統と、鎌倉中心の三男為久の系統とが活躍。宋画の様式を取り入れて仏画新生面を開いた。東寺所蔵「十二天図屏風」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「宅磨派」の意味・わかりやすい解説

宅磨派 (たくまは)

託磨,宅間などとも称せられる。おもに鎌倉時代を通じて最大の流派を形成した絵仏師の一派。鎌倉初期の宅磨勝賀を流祖とするが,その父為遠(ためとお)も宅磨を称し,平安時代の12世紀中ごろ,高野山大伝法院を中心に活躍して法印となり勝智と号した。勝賀をはじめとする同派は,従来のいわゆる藤原仏画の鉄線描や岩絵具の厚塗りによる温和な彩色,精緻に施された截金(切金(きりかね))文様などを特色とする優美な尊像表現に対し,宋代仏画様式に倣い肥瘦の強い墨描線の駆使と,それを生かすように薄く塗られた彩色など,独得の画風をうちたてた。こうした宋仏画の新様を積極的に吸収する一方,本格的な伝統技法をも継承し,両者の融合,和様化による中世仏画の一典型をなすに至った。

 勝賀は12世紀末ころを中心に京都で活躍,その弟為久は1184年(元暦1)鎌倉に下向し,勝長寿院の壁画を描くなど鎌倉で絵仏師の一系統を成した。京都における宅磨派は勝賀のあと,建仁~建保(1201-19)ころに良賀,次いで俊賀,さらに建長(1249-56)ころに長賀が活動,最末期には栄賀が出て,その系統は続く室町時代にまで継承されていった。勝賀をはじめ法名に〈賀〉を用いるものが多いのも特色とされよう。勝賀による《十二天屛風》(教王護国寺)が新様の典型を示すとすれば,俊賀の《真言八祖像》(神護寺)では伝統的な画法が守られており,さらに宅磨派の最後をかざる栄賀の《十六羅漢像》(藤田美術館)に和様化した宋様式画風をみることができよう。
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百科事典マイペディア 「宅磨派」の意味・わかりやすい解説

宅磨派【たくまは】

12世紀の宅磨為遠(ためとお)を祖とする鎌倉時代の画派。託磨とも。為遠の長男宅磨勝賀から始まる京都絵仏師の系統と三男為久を祖とする鎌倉の俗人画師の系統とがある。13世紀中ごろ栄えたが14世紀の宅磨栄賀を最後に衰退。画風は,宋代中国の様式を摂取して抑揚のある強い描線を使い,従来の豊麗な仏画様式を打ち破る新様式を示した。
→関連項目可翁

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宅磨派」の意味・わかりやすい解説

宅磨派
たくまは

詫磨,宅間とも書く。平安時代後期の宅磨為成を祖とし,室町時代前期まで存続した絵仏師の画系で巨勢 (こせ) 派と並称される。為遠,勝賀 (→宅磨勝賀 ) ,為久,為行,俊賀,長賀,栄賀などが続く。為遠の息子勝賀以降,宅磨派は旧様の仏画制作とともに,時代にさきがけて宋代仏画の新しい様式技法を摂取し,特色ある画風を確立した。なかには出家する者がおり,神護寺,高山寺,教王護国寺をはじめ台密の修法などの需要に応じて活躍した。応永2 (1395) 年著賛の『柿本人麻呂像』 (常盤山文庫) を描いた宅磨栄賀にいたって,和漢融合した画風となり停滞した。為久,為行は早くから新興武家政権に接近し,鎌倉に下って堂塔壁画などの制作にあたった。

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世界大百科事典(旧版)内の宅磨派の言及

【鎌倉時代美術】より

… これらの絵画に見られる動向はまだ京都中心的であった。新興都市鎌倉にできた最初の大寺というべき勝長寿院は1185年(文治1)に落慶したが,その作画のために京都から宅磨派の絵師為久を呼び寄せているのもその一例である。しかし同寺の造仏のためには京都の円派や院派仏師ではなく,奈良から慶派の成朝が下った。…

※「宅磨派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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