江戸後期の蘭学者(らんがくしゃ)。美作(みまさか)国(岡山県)津山藩の儒医宇田川道紀(どうき)(1710―1760)の嗣子(しし)。名は晋(しん)、字(あざな)は明卿(めいけい)、槐園(かいえん)・東海と号す。幼時より性格は温柔寡言、孝経などを精読、25歳のとき、西学説に感服して学び始め、杉田玄白(げんぱく)、前野良沢(りょうたく)、桂川甫周(かつらがわほしゅう)の門に入った。とりわけ甫周はその才を愛し、ゴルテルJ. de Gorter(1689―1762)の内科書の翻訳を勧めた。玄随は刻苦10年、1793年(寛政5)『西説内科選要』18巻を刊行、この書で病気を分類して55種をあげ、術語はラテン語と漢方術語との対応に留意している。刊行前、大槻玄沢(おおつきげんたく)は蘭方内科書として簡略すぎることを指摘したが、玄随は道を開くものとしてあえて刊行した。本書により本格的な内科学の原型が生まれ、その後の発展を促進した。晩年補訂の稿をおこしたが脱稿せぬまま、寛政(かんせい)9年12月18日に没した。補注は養子榛斎(しんさい)が完成し、門人藤井方亭(ほうてい)(1778―1845)が1822年(文政5)に増補重訂版18巻を刊行し、師弟相承して大成した。玄随の著作には、ほかに『西洋医言』『遠西名物考』『遠西草本略』『東西病考』などがある。東京・浅草の誓願寺に葬られたが、のち多磨霊園、さらに津山市西寺町泰安寺に改葬された。
[末中哲夫]
『『備作医人伝』(1959・岡山県医師会)』▽『藤野恒三郎著『医学史話――杉田玄白から福沢諭吉』(1984・菜根出版)』
江戸後期の蘭学者,蘭方医。津山藩医の長子として江戸に生まれ,父の没時幼少であった玄随は,叔父玄叔が家督をついでその養嗣子の形をとった。名は晋,字は明卿,槐園・東海と号した。役者に似た色白のやさ男であったので,世人は東海夫人とあだ名した。宇田川家蘭学初代として,前野良沢,杉田玄白らと同時代にあって活躍し,ゴルテルJ.de Gorterの内科書を翻訳して《西説内科撰要》を刊行,それと並行して西洋内科に必要な西洋薬物書《遠西名物考》を準備し,さらに西洋薬物が化学技術に基礎をもつことをつとに洞察してブランカールトの内科書付録《製錬術》を翻訳して,日本へ初めて製薬化学を導入した。これらはいずれも未刊にとどまったが,宇田川家2代榛斎(しんさい),3代榕菴(ようあん)に継承され,《遠西医方名物考》《和蘭薬鏡》等の西洋薬物書,《舎密開宗(せいみかいそう)》等の化学書の刊行へと発展する家学の基盤をつくった。
執筆者:宗田 一
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(宗田一)
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1755.12.27~97.12.18
江戸後期の蘭方医。美作国津山藩医宇田川道紀(彦倫)の子。名は晋(すすむ)。号は槐園(かいえん)。はじめ漢学を学び,のち蘭学に転じた。桂川甫周(ほしゅう)・杉田玄白・大槻玄沢らに蘭医学を学び,ゴルテルの内科書の翻訳を志し,約10年を費やして「西説内科撰要」18巻のうち3巻までを1793年(寛政5)に出版。没後の1810年(文化7)に全巻出版。「東西病考」「遠西名物考」「西洋医言」などは未刊。1794年玄沢らとともにオランダ商館医ハルトケンを尋ね質疑を行い,同年玄沢の新元会(オランダ正月)にも出席した。墓は浅草誓願寺塔頭長安院から多磨霊園をへて玄真・榕庵の墓とともに岡山県津山市に移された。
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…日本で刊行された最初の西洋内科翻訳書。江戸詰の津山藩医宇田川玄随(槐園)がオランダ人ゴルテルJ.de Gorterの内科書(1744)を訳して1793年(寛政5)から江戸で刊行開始し,玄随の没後に出版元が大坂に移って数転,十数年を経た1810年(文化7)に全18巻が完結した。本書によって,それまで外科系志向であった日本の西洋医学は,内科系を加えて発展するようになり,西洋内科医を標榜する者も出るようになった。…
…ヨーロッパ語としてのメランコリーがいつ日本に初めて伝えられたかははっきりしないが,江戸期の蘭方医がこれを仲介していることは確かである。たとえばゴルテルJohannes de Gorter(1689‐1762)の内科書(1744)を宇田川玄随が邦訳した《西説内科撰要》全18巻(1793‐1810)には,メランコリアを漢字に当てた〈黙朗格里亜〉の用語が,その意訳である〈胆液敗黒病〉とともに現れており,ついで,小森桃塢(とうう)(玄良)(1782‐1843)らによって〈鬱証〉〈鬱愁〉〈鬱狂〉などの訳語が提出されたあと,おなじく小森の編集になる《泰西方鑑》全5巻(1827)にいたり,ようやく〈鬱憂病〉の語が〈メランコリア〉のルビをつけて登場する。こうしてヨーロッパ的なメランコリーが,日本的な〈気鬱〉と結びつくわけだが,既述のとおり,前者が古代ギリシア・ローマ医学の体液病理学から発しているのに対し,後者は東洋医学に支配的な〈気〉の病理学に由来しており,この病理学上の差はメランコリーと日本的〈鬱〉との症候論上のちがいをも導いている。…
※「宇田川玄随」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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