多磨霊園(読み)タマレイエン

デジタル大辞泉 「多磨霊園」の意味・読み・例文・類語

たま‐れいえん〔‐レイヱン〕【多磨霊園】

東京都府中市にある霊園旧称多磨墓地。大正12年(1923)開園面積約128万平方メートル。東郷平八郎山本五十六三島由紀夫江戸川乱歩岡本太郎など、著名人の墓が多い。

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日本歴史地名大系 「多磨霊園」の解説

多磨霊園
たまれいえん

[現在地名]府中市多磨町四丁目、小金井市前原町一丁目

府中市北部から小金井市南部にかけての地域にある都営霊園。東京区部の人口膨張と墓地不足を背景に東京市は大正八年(一九一九)公園墓地の計画を作成。翌年一二月には多磨墓地(東京都市計画多磨共葬墓地)を多磨村・小金井村にまたがる三〇万坪の地に設けることを決定し、同一〇年用地買収を完了、同一一年一月工事に着手し、同一二年四月から供用を開始した。昭和二年(一九二七)墓域の一画に国家的勲功のあった者を葬る名誉霊域を設けた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「多磨霊園」の意味・わかりやすい解説

多磨霊園
たまれいえん

東京都府中市北部から小金井市(こがねいし)にまたがる都営墓地。武蔵野(むさしの)台地にあり、雑木林アカマツに囲まれ、武蔵野のおもかげを残している。面積128万平方メートル。墓所区域は26区画に分かれ、約26万人が埋葬されている。1923年(大正12)開園したもので、日本最初の公園墓地として計画され、中央の広場中心放射状に環状路が取り巻き、整然とした近代的施設となっている。田山花袋(かたい)、三島由紀夫(ゆきお)、岡本かの子、北原白秋、菊池寛吉川英治野村胡堂(こどう)らの文人徳富猪一郎(とくとみいいちろう)(蘇峰(そほう))、内村鑑三(かんぞう)、新渡戸稲造(にとべいなぞう)、小泉信三らの学者、川合玉堂(かわいぎょくどう)、中山晋平(しんぺい)、下村観山(しもむらかんざん)らの芸術家、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)、山本五十六(いそろく)らの軍人、西園寺公望(さいおんじきんもち)、平沼騏一郎(きいちろう)、浅沼稲次郎(いねじろう)らの政治家など知名人の墓が多い。

[沢田 清]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「多磨霊園」の意味・わかりやすい解説

多磨霊園
たまれいえん

東京都西部,府中市から小金井市にまたがる都営の墓地。面積 1.33km2。 1923年に開園。墓域は3区に分けられ,南東端正門内の広場を中心に各区に通じる道路が放射状に設けられ,庭園風に設計された近代的公園式墓地である。

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世界大百科事典(旧版)内の多磨霊園の言及

【墓地】より

…谷中霊園は谷中の天王寺(旧,感応寺)の境内を利用し,五重塔で知られ,雑司ヶ谷霊園は樹木が豊かで好評であった。しかし,東京の発展により,さらに墓地の需要が高まったため,大正12年(1923)4月,東京市は市外西郊の府中に画期的に大規模な公園墓地,多磨霊園を設置した。面積133万m2,東南隅の正門内の広場から環状道路と放射状道路で3区に分かれた墓域に通ずるようにした。…

※「多磨霊園」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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