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守田勘弥(12世) もりたかんや[じゅうにせい]

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

守田勘弥(12世)
もりたかんや[じゅうにせい]

[生]弘化3(1846)
[没]1897.8.21.
歌舞伎の守田座座元 (劇場興行主) 。帳元 (劇場支配人) 中村翫左衛門の子で,守田家の養子となった。本名寿作。明治5 (1872) 年に,新制度となったとき,猿若町にあった守田座を新富町に移転し,新しい時代に即応した興行を始めた。 1875年に新富座と改称してから当時の一流俳優を出演させ,官憲文人と結んで新しい制度を採用,新富座時代と呼ばれる黄金時代を築いた。しかし経営的には苦しく,多くの借財のため 83年には事実上この座の経営から身をひいた。古河新水という作者名で作品も書いた。

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世界大百科事典内の守田勘弥(12世)の言及

【演劇改良運動】より

…江戸時代に悪所とみなされた芝居に対して,明治初年から20年代にかけて試みられたさまざまな改良運動をいう。明治政府の欧化政策や社会各分野の新時代の気運に応じて,まず興行者の12世守田勘弥と9世市川団十郎が,依田学海らの協力を得て,歌舞伎を高尚な演劇に革新することをめざした。有職故実家による史実や時代考証の重視,道徳的規範にのっとった人物像の設定など,いわゆる〈活歴劇〉がそれで,1878年6月,勘弥の新富座開場に際して団十郎は《松栄千代田神徳(まつのさかえちよだのしんとく)》を上演したが,民衆の支持を得られなかった。…

【活歴物】より

…明治10年代以降9世市川団十郎を中心に行われた歌舞伎の革新運動のなかで,旧来の荒唐無稽な時代物でなく,史実によって脚色し時代考証による扮装・演出に重きをおいた時代物の作品群をいう。団十郎のこの運動には1872年(明治5)に新劇場を新富町に建設して旧制度の打破を試みた興行師の12世守田勘弥,作者界の第一人者河竹黙阿弥らが協力した。〈活歴〉の語は,78年10月黙阿弥作の《二張弓千種重藤》が上演された際,〈時代物は活きたる歴史〉でなくてはならぬと依田学海らが述べたのに対し,《かなよみ新聞》で仮名垣魯文が〈活歴史〉と評したのにはじまるという。…

【歌舞伎】より

…名優の9世市川団十郎は,明治劇団の中心人物であり,しかも進取の気性に富んでいた。そこで,同じ志を抱いていた興行師12世守田勘弥とともに劇界を代表し,政界,財界,文人たちの後援のもとに,いわゆる〈演劇改良運動〉を実践した。従来の歌舞伎の特徴であった非合理的な筋立てと卑俗な内容をやめ,誇張された様式的演技術を廃し,高尚趣味と写実的・合理的な演技術を用いて,新時代にふさわしい演劇を創り出そうとした。…

【国立劇場】より

… なお,アメリカにも,西欧諸国と比較して少ないにせよ,公共の財政援助はあるが,国立劇場(と劇団)はなく,演劇制作が徹底してプライベートなのはいかにも御国柄を反映していて面白い。【渡辺 淳】
【日本】
 日本に国立劇場を設置しようとする運動は,1873,74年(明治6,7)ごろ,外遊から帰った大久保利通,末松謙澄らから12世守田勘弥がヨーロッパの宮廷劇場の実情を聞いて,計画を立てたときに始まる。欧化政策のもとで,86年,演劇改良会が伊藤博文の支持を得て建築計画に着手したり,1906年に再び伊藤博文を中心に政財界人をひろく集め,国立劇場設立発起人会が開かれたりしたが,いずれも中絶した。…

※「守田勘弥(12世)」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

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