中国、明(みん)初の学者。字(あざな)は景濂(けいれん)。号は潜渓(せんけい)。浦江(浙江(せっこう)省)の人。唐宋の古文と朱子学を窮め、当時の経学・文学における正統派の代表者である。太祖に仕えて顧問となり、『元史』の編集を総裁し、翰林(かんりん)の要職を歴任するとともに、劉基(りゅうき)とともに明朝の諸制度を定めた。高潔な人格者として皇太子を教育し、太祖の信任もきわめて厚かったが、のち孫の宋慎(1342―1382)が胡惟庸(こいよう)の獄に連坐(れんざ)して刑死したため、彼も茂州に流され、途中で自殺した。文章は典雅で明初随一と称されるが、一面冗漫の弊がある。しかしその名は、遠く海外に聞こえ、日本でも彼に請うた文は多い。著に『宋学士全集』がある。伝は『明史』巻128に記される。
[福本雅一 2016年2月17日]
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…210巻。宋濂らの編。明朝成立の後ほどなく,1370年(洪武3)に完成。…
…中国,明の楽韶鳳,宋濂らが勅命により編纂,1375年(洪武8)に刊行した官定の韻書。序文では中原雅音により旧音の誤りを正すと言い,従来の206韻は,平声,上声,去声各22,入声10,合計76韻に併合されている。…
…1380年(洪武13)中書省左丞相胡惟庸は謀反のかどで処刑され,御史大夫陳寧ら多くのものが連座した。累は劉基らとともに四先生と呼ばれた宋濂にも及んだ。胡惟庸が日本や北元に通謀していたことが明らかになると,90年再び関係者が追及され,その姻戚李善長をはじめ陸仲亨,費聚,黄彬らの建国の功臣が処刑され,すでに死亡していた顧時,楊璟,華雲竜らはその爵を奪われた。…
※「宋濂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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