改訂新版 世界大百科事典 「宋詩」の意味・わかりやすい解説
宋詩 (そうし)
Sòng shī
中国,宋代の詩。硬質な知性を特色とし,唐詩とならんで中国の詩の一方の典型とされている。
北宋の初期には,五代の変乱の後をうけて,文学は壊滅状態にあった。太宗から真宗時代にかけて,ようやく復興の機運が起こったが,詩においては晩唐の李商隠の晦渋できらびやかな詩を形式的に模倣する西崑(せいこん)体が流行したにすぎなかった。ただ王禹偁(おううしよう)(954-1001)が,平静淡泊な中に,社会批判をこめた独自の詩を作り,宋詩の第一声とされる。仁宗時代に入り,散文の分野で古文を提唱して文体を改革した欧陽修を先頭に,梅尭臣,蘇舜欽(そしゆんきん)らが新しい詩を作りだし,たちまち詩風は一変した。とりわけ欧陽修によって〈梅翁は清切を事とし,石もて歯を寒瀬(かんらい)に漱(すす)ぐ,……たとえば妖韶(ようしよう)の女のごとく,老いておのずから余態あり。近詩はことに古硬,咀嚼(そしやく)はなはだ嘬(か)みがたし。初めは橄欖(かんらん)を食うがごとく,真味久しくしていよいよ在り〉と歌われた梅尭臣は貧しい生活と,社会,身辺の負の局面に対する異常な興味にもかかわらず,一代の流行詩人としてその詩が広く普及し,文壇の大御所としての欧陽修の信望とあいまって,詩の変革に大きな影響を与えた。欧陽修の先の評語は,ほとんど宋詩の本質を言いつくしたといってよい。
神宗時代に入り,王安石は政治的発言を託した議論詩を作る一方,透き通るような新しい抒情を創造し,士大夫の余裕の文学としての宋詩の性格は,いっそう明確になった。蘇軾(そしよく)(東坡)は,詩においても宋代第一の大家で,楽天の哲学にもとづき,機知とユーモアを交えて,余裕の詩として最高度の達成を示す。蘇軾の門下には多くの詩人が出た。秦観,陳師道,文同(字は与可)らがあげられるが,黄庭堅(山谷)は詩人として蘇軾と匹敵する。点鉄成金,換骨奪胎と称して,古人の詩句を自在に活用する手法を駆使して,宋詩の主知主義を極限まですすめ,多くの模倣者を出し,江西派という詩派を作りだす。
南北宋過渡期の陳与義(1090-1138)は,激動の中で唐詩の抒情性への回帰が見られ,この傾向は南宋の三大家と呼ばれる陸游,范成大,楊万里に引き継がれた。3家の詩はいずれも金に北方領土を奪われた国家の状況に対する憂慮という当時最大の歴史的課題を主題としつつ,社会と自己の身辺の現実を凝視する。陸游はもっとも戦闘的であり,愛国詩人として知られる一方,江南農村の生活と自己の内面とを題材として,おびただしい詩を残した。南宋後期は江湖派と称する無数の小詩人の時代で,詩は市民レベルで広く普及した。その中で,《三体詩》の編集に見られるように,唐詩ことに晩唐風の淡泊な詩が復活する傾向が見られる。江湖派の詩人は,南宋が滅ぶと,モンゴルへの抵抗の意味もこめて,遺民と呼ばれる隠逸詩人に移行する。抵抗の英雄である文天祥の悲壮な詩は,宋詩の末路を飾るものであった。
宋詩は中国においても日本においても,古文辞派によって堕落した弱々しい詩として否定されたが,清朝に入って見直され,清朝後期の江西派は黄庭堅を祖述した。日本においては,五山の僧たちに,蘇軾,黄庭堅が崇拝され,江戸後期に山本北山らが南宋詩を鼓吹したが,知的難解性のために,宋詩は唐詩ほどには普及しなかった。
→唐詩
執筆者:入谷 仙介
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