宝寿院(読み)ほうじゆいん

日本歴史地名大系 「宝寿院」の解説

宝寿院
ほうじゆいん

[現在地名]高野町高野山

正智しようち院の南西、小高く石垣を築いた台地上にある。無量寿むりようじゆ院と号したが、大正二年(一九一三)みなみ谷にあった宝性ほうしよう院を合併して宝寿院と改称し、院内に僧侶養成機関である高野山専修学院を設けて今日に至る。大本山本尊大日如来

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔無量寿院〕

無量寿院開基藤原師輔の子大僧正深覚で、「続風土記」は長元四―六年(一〇三一―三三)頃かとする。鎌倉時代中期の道範までの住持はわからないが、「諸院家析負輯」所引の仁治三年(一二四二)三月二七日の無量寿院御塔供僧置文には供僧を置くことがみえるし、同年六月日の加賀国益富保年貢相折帳案によれば都合三二石四斗四升の年貢が上がっていたらしい。道範ののち学僧が続いたが、応永一〇年(一四〇三)頼円の後を受けて入寺した本智房長覚(応永二三年没)は碩徳の誉れ高く、学徒が雲集、同じ頃の宝性院宥快とともに、それぞれ一家を分つこととなった。無量寿院の学派を寿門という。江戸時代には当院を寿門主の院室と定め、門中所属の寺院が確定した。


宝寿院
ほうじゆいん

[現在地名]津島市神明町

津島神社の朱塗鳥居をくぐり、神苑の奥深い地で古杉老檜に囲まれている。牛頭山千蔵坊と号し、真言宗智山派。本尊は不動明王立像。

津島神社神宮寺社僧十坊の一つである。文和二年(一三五三)僧実到の中興とされている(尾張志)。天正七年(一五七九)一二月一日の「牛頭天王御帰座遷宮こもり銭之事」(津島神社蔵)に「一、社僧中も五貫つゝ也。以上十人」とあるのが文献上の初見で、当時は千蔵せんぞう坊・泉蔵せんぞう坊と称していた。


宝寿院
ほうじゆいん

[現在地名]湯津上村片府田

片府田かたふた集落の東方にある。月桂山と号し、宝寿院明覚寺と称する。真言宗智山派。本尊は不動明王。所属仏堂に如来堂がある。嘉吉三年(一四四三)紀伊根来ぬごろの僧祐満が本尊を勧請伽藍を創建したと伝える。また天福元年(一二三三)祐満の開基、嘉吉元年二世宥仙の中興とする説もある(那須郡誌)。寛正三年(一四六二)火災により焼失本堂はその後再建された。那須家があつく帰依し、那須資胤の代には寺領五〇石を寄進されたという。戦国期から近世初頭と思われる年未詳一一月二九日の那須資晴書状(金剛寿院文書)は「宝寿院」に宛てられており、当院の後住に福原ふくはら(現大田原市)の八幡別当が決定したことを認め、同院から贈られた地蔵仏の礼を述べている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宝寿院」の意味・わかりやすい解説

宝寿院
ほうじゅいん

和歌山県高野町にある高野山真言宗の大本山。本尊は大日如来。藤原師輔の子深覚を開山とし,無量寿院と呼ばれていたが,1913年宝性院と合併して宝寿院となった。宝性院は法性覚円房を開山とし,初め法性院と称していたが,中世に宝性院と改名したらしい。両院とも学問寺として有名であった。国宝として唐代の『文館詞林残巻』 (1巻) を所蔵するほか,唐代の『大般若経断簡』 (1巻) ,平安時代の『金銅三鈷』などの重要文化財を伝える。

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