宮代村(読み)みやしろむら

日本歴史地名大系 「宮代村」の解説

宮代村
みやしろむら

[現在地名]福島市宮代・瀬上町せのうえまち

瀬上村の西、摺上すりかみ川右岸の低位沖積段丘上に立地御社とも記された。永正一七年(一五二〇)四月二日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)によれば、遠藤彦四郎から購入した「宮代郷之内、七段田、年貢一貫四百文之所」などが佐藤孫右衛門に安堵されている。天文七年(一五三八)の段銭古帳では信夫北しのぶきた郷のうちとして「ミや志ろ」とあり、段銭は一二貫五〇〇文。伊達家家臣宮代氏は当地を本拠としたとみられる。慶長五年(一六〇〇)冬の伊達政宗最上陣覚書(伊達家文書)に宮代とみえ、同年一〇月六日、政宗方の茂庭綱元らは当地で上杉景勝方と合戦となった。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録には御社とみえ、高九七〇石余。近世初期の邑鑑によると免三ツ二分、家数二七(役家一〇、肝煎・小走四、寺・山伏・座頭・脇家一三)、人数八一、役木として桑・楮がある。米沢藩領時代の古高一千七二三石余、幕府検地による新高一千四三六石余(古高新高帳)


宮代村
みやしろむら

[現在地名]垂井町宮代

垂井村の南に位置し、東は表佐おさ村。南西に南宮なんぐう山がそびえ、山麓には美濃一宮南宮神社が鎮座する。同社をはじめ大領だいりよう神社・宮代廃寺などの古代の寺社があり、また字政所まんどころの地は不破郡家の置かれた地とする説がある。天正一七年(一五八九)一一月一六日の浅野長吉・石田三成連署副書(南宮神社文書)に南宮神社領として宮代村のうち三〇〇石とある。慶長一四年(一六〇九)検地帳(同文書)一二冊が残り、うち九冊分が「垂井町史」に収載される。元和二年(一六一六)の田方内検帳(南宮神社文書)に六二町四反余・有米七二四石余、同畑方内検帳(同文書)に四四町四反余・合一八〇石余とある。


宮代村
みやしろむら

[現在地名]森町一宮いちみや

谷崎やざき村の北、赤石山脈の南端丘陵地にある。東を伏間ふすま川、西を一宮川がほぼ南へ流れ、一宮川の上流に遠江国一宮小国おくに神社がある。周知すち郡に属する。村名は一宮の御戸代であったことにちなむとされる(遠江国風土記伝)。天正一八年(一五九〇)一〇月二五日、山内一豊が代官に補任された豊臣秀次の蔵入地、「遠江国一宮辺」一万一千九八〇石は当村を含む地であろうか。慶長二年(一五九七)の榛原郡外勘定免目録(一豊公紀)には一宮筋御蔵入免目録のうちに宮代村がみえ、高頭三一六石余、うち二四〇石余が毛付分、物成一五二石余。


宮代村
みやだいむら

[現在地名]各務原市蘇原宮代町そはらみやだいちよう蘇原宮塚町そはらみやづかちようなど

さかい川右岸に位置する。各務かかみ郡に属し、南は大島おおしま村、西は北洞きたぼら村。宮台とも記す。東山道の通過地域に想定する説がある(濃飛両国通史)慶長郷帳に村名がみえ、高一〇五石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では奥平忠隆(加納藩)領。寛永九年(一六三二)幕府領となる。正保郷帳には宮台村とみえ、田高七七石余・畑高二八石余・桑木高八升。貞享元年(一六八四)以降旗本室賀領となり、幕末に至る。当村境から岩田いわた(現岐阜市)境までの川替普請の際、当村と岩滝いわたき(現同上)との間に工事をめぐって争論があったが、嘉永二年(一八四九)に内済となっている(「川替普請出入内済証文」片野記念館蔵)


宮代村
みやしろむら

[現在地名]美浜町宮代

みみ川の右岸、御岳おたけ山の西山裾に立地。北は麻生あそ村。「若狭旧事考」の「弥美郷」に「三方郡弥美神社あり、こは今耳ノ庄御社村にあり此村ノ名宮代とも書り」とあり、御社みやしろ村とも書いた。

中世には織田おりた庄に属した。天文二二年(一五五三)の野崎次郎右衛門尉永作職之事(野崎家文書)によれば室町後期には耳庄とよばれている。弘治二年(一五五六)六月の明通寺鐘鋳勧進算用状(林屋辰三郎氏蔵)に「百文 ミやしろ」とある。永禄六年(一五六三)の朝倉氏若狭攻めのとき、国吉くによし城籠城に加勢したものの中に、御社村の地侍白井弥太郎の名がある(佐柿国吉城籠城記)


宮代村
みやしろむら

[現在地名]龍神村宮代

日高川沿いの山間の村で、北東は日高川上流広井原ひろいはら村、南は下流の西にし村およびひがし村。慶長検地高目録では村高二二二石余、小物成一・三七七石。のち上下の二村に分れ、延宝六年(一六七八)の「日高鑑」によれば下宮代村は田畑一三町余で村高一二六石余、家数四三で内訳は本役一四・半役一一・無役一六・庄屋一・ありき一、人数二一〇、牛一二、鉄砲五。上宮代村は田畑一一町四反余で村高一〇三石余、家数四七で内訳は本役一四・半役八・庄屋一・肝煎一・無役二三、人数二一五、牛一七、鉄砲一一。


宮代村
みやしろむら

[現在地名]東白川村五加ごか 宮代

白川中下流域右岸に位置し、東は柏本かしもと村、西は大沢おおさわ村、南は下野しもの村。慶長郷帳に宮地村とあり、高四一石。正保郷帳では田方二〇石余・畑方二〇石余。正保四年(一六四七)の定納帳(立教大学史学研究室蔵)では高五四石余で、定納高は山年貢ともに二七石余である。慶長検地の名請農民六で、宝永二年(一七〇五)の相地改では本家七・脇家二(交告文書)


宮代村
みやしろむら

[現在地名]小原村宮代

田代たしろ川の中流域にあり、三角点は標高五二七・六メートル。大草おおくさ平岩ひらいわを通る松名まつな道と松名―いちを通る明智あけち道が通ずる。寛永郷帳では岡崎藩領、明治元年(一八六八)大多喜藩領である。


宮代村
みやしろむら

[現在地名]篠山市宮代

なか村の東にあり、大芋おくも川が流れる。明応六年(一四九七)九月五日の大芋慶氏当知行分目録(大芋文書)に「宮代大将軍」「宮代左衛門次郎男」と記される。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「宮代村」とみえ、高二二六石余。正保郷帳では田高一八四石余・畠高四二石余。「丹波志」では大芋庄のうちで、高一八八石余。


宮代村
みやしろむら

[現在地名]和良村宮代

鹿倉かくら川中流にあり、南下流は野尻のじり村。耕地の大半は右岸にあり、集落は耕地の北および西の山際に広がる。正保郷帳に村名があり、郡上藩領で、田方一二〇石余・畑方七二石余。正保三年(一六四六)遠藤慶利の三男山田常紀が分知され、以後旗本山田(のち遠藤姓に復する)領となり幕末に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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