宮崎八郎(読み)みやざきはちろう

改訂新版 世界大百科事典 「宮崎八郎」の意味・わかりやすい解説

宮崎八郎 (みやざきはちろう)
生没年:1851-1877(嘉永4-明治10)

志士的民権家。肥後荒尾(現,熊本県荒尾市)の人。のち真郷(まさと)と改名。父長蔵の英雄指向・金銭蔑視・貧者救済の薫陶のもとに,みずからの理想を実現すべく,維新の変革期を生きぬいた。幼時漢学を学び,20歳で上京して国学,英語,万国公法等を学ぶ。1873年(明治6),西郷隆盛下野に憤って征韓の正当性を政府に建白し,翌年には征台義勇軍に参加した。しかし帰郷後には聖書にふれ,中江兆民と交わって《民約論》に感激するなど,民権主義の立場を明確にしていく。その間,75年の植木学校の開設(半年後に官憲命令で閉鎖)や翌年の《評論新聞》での論陣はその実践であった。77年,西南戦争が始まると協同隊組織して薩軍についたが,4月6日に八代の球磨川で戦死した。〈西郷天下取らせてまた謀叛するつもりだった……〉との伝説は,ほぼ彼の真意をうつすものだろう。民蔵・虎蔵はその弟である。
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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「宮崎八郎」の解説

宮崎 八郎
ミヤザキ ハチロウ


生年月日
嘉永4年(1851年)

出生地
肥後国玉名郡荒尾村(現・熊本県荒尾市)

経歴
熊本藩校時習館に学び、維新後藩命により東京に遊学、尺振八に英学、西周に万国公法を学ぶ。明治6年征韓論に際し左院に建議、翌7年岩倉具視襲撃の嫌疑を受けて入獄。同年台湾出兵に際し義勇兵を組織して従軍。帰国後、熊本に植木学校を主宰し、また霄月社を起こして自由民権を唱道。8年上京して海老原 と交わり評論新聞社に入社反政府の論調を張って新聞紙条例にふれ、再び入獄した。西南戦争では協同隊を組織して西郷軍に加わり、肥後荻原堤で戦死した。

没年月日
明治10年4月6日

家族
弟=宮崎 民蔵(社会運動家) 宮崎 滔天(革命家 評論家) 宮崎 弥蔵(革命家)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

朝日日本歴史人物事典 「宮崎八郎」の解説

宮崎八郎

没年:明治10.4.6(1877)
生年:嘉永4(1851)
明治初期の自由民権運動家。名は真郷。肥後国玉名郡荒尾村(熊本県荒尾市)の郷士の次男,民蔵,滔天の兄。藩校時習館から明治3(1870)年東京遊学,西周らの私塾に学ぶ。7年2月征韓論を左院に上書し,4月の台湾出兵に従軍。8年2月の愛国社結成大会参加後は熊本で『民約論』を経典とする植木学校を創設,県民会開設運動を展開する一方,『評論新聞』などに反政府の筆をふるう。西南戦争(1877)では「西郷に天下取らせてまた謀反する」ことを意図し,熊本協同隊を結成して薩軍に参加,天皇の軍隊と戦い八代で戦死した。<参考文献>上村希美雄『宮崎兄弟伝』日本篇上

(上村希美雄)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宮崎八郎」の解説

宮崎八郎 みやざき-はちろう

1851-1877 明治時代の自由民権運動家。
嘉永(かえい)4年生まれ。肥後(熊本県)荒尾の郷士の次男。宮崎民蔵,宮崎滔天(とうてん)の兄。東京で西周(あまね)らの塾にまなぶ。明治7年台湾出兵のとき,平川惟一(ただいち)らと従軍。帰郷して植木学校を創設し,民権論をとなえた。西南戦争がおこると協同隊を組織,西郷方に参加して明治10年4月6日戦死。27歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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