平安中期の天台宗の僧。寂昭とも書く。俗姓は大江定基(おおえのさだもと)。参議大江斉光(なりみつ)(934―987)の第3子で、文章博士(もんじょうはかせ)となり、三河守(みかわのかみ)となったが、妻の死にあって無常を観じ、988年(永延2)出家し、寂心(じゃくしん)(慶滋保胤(よししげのやすたね))に師事した。また源信(げんしん)に天台を、仁海(にんがい)に密教を学んだ。1003年(長保5)五台山巡礼のために入宋(にっそう)し、源信から託された天台宗疑問二十七条を携えて、中国天台の四明知礼(しめいちれい)(960―1028)をたずね、答えを得て帰国しようとしたが、中国の宰相にとどめられ、呉門寺(ごもんじ)に住した。以後、在宋30年に及び、真宗(しんそう)皇帝から紫衣(しえ)を賜り、円通(えんづう)大師の号を贈られた。長元(ちょうげん)7年、杭州(こうしゅう)(浙江(せっこう)省)の清涼山に没した。詩文に優れ、『後拾遺(ごしゅうい)和歌集』『新古今和歌集』などに、その詩歌が収録されている。
[池田魯參 2017年8月21日]
平安中期の僧。参議大江斉光の三男で俗名は定基。三河守在任中,愛人の死により道心を発し,986年(寛和2)出家した。東山如意輪寺に入り寂心(慶滋保胤(よししげのやすたね))に師事し,源信,仁海にも学んだ。988年(永延2)ころから五台山(清涼山)巡礼のため入宋をたびたび朝廷に願い,寂心の没後,1003年(長保5・宋の咸平6)8月肥前を発し,9月明州に到着。このとき源信が《台州疑問二十七条》を寂照に託し,四明知礼に解答を求めたのは有名である。04年(宋の景徳1)宋帝真宗に謁し,円通大師の号と紫袍を賜り,丁謂(丁晋公)らの知遇を得て帰国を断念し,姑蘇の呉門寺にとどまった。寂照の在宋間の事績は,寂照入宋に従った念救の一時帰国によって日本に伝えられ,藤原道長らは,15年(長和4)再度入宋する念救に寂照あての書状や砂金を託した。寂照は34年(宋の景祐1)杭州に没したという。
執筆者:速水 侑
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(三橋正)
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