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寂照 じゃくしょう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

寂照
じゃくしょう

[生]?
[没]長元7(1034).杭州
平安時代中期の天台宗の僧侶。俗名大江定基。三河守在任中,妻を失い出家。寂真,源信仁海らに学ぶ。長保5 (1003) 年入宋。宋の真宗より紫衣を賜わり,円通大師の号を受けた。在宋 31年に及び,中国杭州に寂した。

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デジタル大辞泉の解説

じゃくしょう〔ジヤクセウ〕【寂照】

[964~1034]平安中期の天台宗の僧。京都の人。俗名、大江定基。文章博士(もんじょうはかせ)となったが、妻を失って出家。長保5年(1003)入宋し、杭州(浙江(せっこう)省)で没した。「寂昭」とも書く。

出典|小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

寂照 じゃくしょう

?-1034 平安時代中期の僧。
大江斉光(ただみつ)の3男。天台宗。官途につくが,寂心(慶滋保胤(よししげの-やすたね))にしたがって出家。比叡(ひえい)山の源信に天台を,醍醐(だいご)寺の仁海(にんがい)に密教をまなぶ。長保5年(1003)源信の天台宗疑問27条をたずさえて宋(そう)(中国)にわたる。真宗皇帝から紫衣(しえ)と円通大師の号をおくられた。詩文にすぐれ,藤原道長らと書状をかわした。長元7年杭州(こうしゅう)で客死。俗名は大江定基。法名は寂昭ともかく。通称は三河入道。

出典|講談社
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朝日日本歴史人物事典の解説

寂照

没年:長元7(1034)
生年:生年不詳
平安中期の天台宗の僧。大江斉光の子。俗名は定基。寂昭,三河入道ともいう。三河守のときに任国で妻を亡くし,永延2(988)年に出家,寂心(慶滋保胤)らに師事した。長保4(1002)年に入宋の公許を得て,翌年,源信から委託された天台宗に関する27カ条の質問状を携えて渡海した。寛弘1(1004)年,真宗皇帝に謁し,紫衣と円通大師の号を賜る。文章,和歌に優れ,宋滞在中にも藤原道長ら日本の貴族と書状を交わした。故国に戻ることなく杭州で寂す。理想的な求道者,往生者として説話に語られる。<参考文献>西岡虎之助「入宋僧寂照についての研究」(『西岡虎之助著作集』3巻)

(三橋正)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

寂照
じゃくしょう
(962―1034)

平安中期の天台宗の僧。寂昭とも書く。俗姓は大江定基(おおえのさだもと)。参議大江斉光(なりみつ)の第3子で、文章博士(もんじょうはかせ)となり、三河守(みかわのかみ)となったが、妻の死にあって無常を観じ、988年(永延2)出家し、寂心(じゃくしん)(慶滋保胤(よししげのやすたね))に師事した。また源信(げんしん)に天台を、仁海(にんかい)に密教を学んだ。1003年(長保5)五台山巡礼のために入宋(にっそう)し、源信から託された天台宗疑問二十七条を携えて、中国天台の四明知礼(しめいちれい)をたずね、答えを得て帰国しようとしたが、中国の宰相にとどめられ、呉門寺(ごもんじ)に住した。以後、在宋30年に及び、真宗(しんそう)皇帝から紫衣(しえ)を賜り、円通(えんづう)大師の号を贈られた。長元(ちょうげん)7年、杭州(こうしゅう)(浙江(せっこう)省)の清涼山に没した。詩文に優れ、『後拾遺(ごしゅうい)和歌集』『新古今和歌集』などに、その詩歌が収録されている。[池田魯參]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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