(正木晃)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
平安中期の真言(しんごん)宗の僧。小野僧正(おのそうじょう)また雨(あめ)僧正とも称する。東密事相において広沢(ひろさわ)流と並び称される小野流の始祖。和泉(いずみ)(大阪府)の人。7歳で高野山(こうやさん)に登り雅真(がしん)(?―999)について出家、醍醐寺(だいごじ)の元杲(げんごう)(914―995)に伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を受け、また諸方に遊学して深義を探る。あるとき、その母が牛になって某所にあるを夢にみ、その牛を購入して養い育て、死後その皮に両部曼荼羅(まんだら)を描いて山城(やましろ)国(京都府)小野の一寺に安置したと伝える。以後この寺を曼荼羅寺と称し、この地に法燈(ほうとう)を建立した。1018年(寛仁2)畿内(きない)の大干魃(かんばつ)に際し請雨(しょうう)法を修して法験(ほうげん)を現し、さらにその後9回にわたり降雨を祈ってみな験(しるし)あり、遠く中国宋(そう)にまで雨海(うかい)大師の名を響かせた。東寺長者を務めた。著書に『小野六帖(ろくちょう)』『伝持集』など多数がある。
[吉田宏晢 2017年9月19日]
平安時代中期の真言宗の僧。和泉国の人,宮道惟平の子。初め高野山に登り,雅真の弟子となり,次いで醍醐寺の元杲(げんごう)に両部大法を受け,のち洛東小野の地に曼荼羅寺(現在の随心院)を創建した。以後,高野山の堂塔復興に尽力し,東寺凡僧別当,東大寺別当を経て,1031年(長元4)東寺一長者に任じ,38年(長暦2)僧正となる。小野の地にちなみ小野僧正と呼ばれ,また元杲に伝受した請雨経法を得意とし,祈雨の法験ことに優れたので,世に雨僧正とたたえられた。のちにその法流は小野流と呼ばれ,広沢流と並んで東密の二大流派を形成した。
執筆者:速水 侑
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…この法は愛染王念誦法と護摩法とがあり,秘法とされるが,それとは別に最極秘法としての〈如法愛染法〉がある。日本における愛染王法の成立を求めると,小野曼荼羅寺開基の仁海(にんがい)が《愛染王大次第》《愛染王鈔》を編んだと伝えられており,その弟子の成尊(せいそん)は1065年(治暦1)ごろ後三条天皇の即位を祈ってこの法を修し,成尊の弟子範俊(はんじゆん)もしばしば愛染王法を修した。また80年(承暦4)に範俊は如法愛染法を修して《如法愛染次第》をあらわしている。…
…通称小野門跡。平安中期に真言宗小野流の開祖仁海僧正が開創したと伝える牛皮山曼荼羅(まんだら)寺を起源として,5世増俊のとき随心院と改称。鎌倉時代に最盛期を迎え,門跡寺院・天皇祈願所となり,堂宇も整備されて多くの寺領荘園をもち,真言宗の二大法流の一つ小野流の大道場として栄えた。…
…すなわち仏教説話は輪廻をテーマにして,来世の悪報を説いて,今世の善行と仏教信仰を勧める。また輪廻を信じた平安時代の高僧仁海僧正は,1匹の牛を見て母の転生とさとり,これを買い求めてたいせつに飼った。その死後は皮を鞣(なめ)して曼荼羅を図絵し,その牛皮曼荼羅を本尊として京都山科に建てたのが曼荼羅寺であると伝える。…
※「仁海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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