鎌倉初期に源頼朝が富士の裾野(藍沢。現在の静岡県御殿場市付近か)で大規模に行った巻狩。曾我兄弟の仇討で有名。平氏を滅ぼし(1185),奥州征伐(1189)も終えた頼朝は,1190年(建久1)初めて上洛して右大将に補任(ぶにん)され,92年には後白河法皇の死にともなって念願の征夷大将軍に補任された。名実ともに武家政権の首長となった頼朝は翌93年下野那須野,信濃三原野に巻狩を挙行,ついで5月には富士野で大規模な夏狩を行った。武芸の鍛錬は当時の武将にとって重要不可欠な要素である。この時期の大規模な巻狩挙行は,そうした武将を従える源頼朝が武家政権を確立し,みずからがその長であることを内外に示す大デモンストレーションとしての意味をもった。このとき頼朝の嫡男源頼家(当時12歳)が初めて鹿を射とめ,頼朝は大いに喜んで直ちに山神に感謝する矢口祭(やのくちまつり)を行い,祝宴を催したという。頼朝にとってそれは頼家が武家政権の後継者にふさわしい資格を有することを御家人に誇示する祝宴でもあった。頼朝は早速この吉事を妻北条政子に報告させたが,政子は〈武将の嫡嗣として原野の鹿鳥を獲ること,あながち希有(けう)たるに足らず〉と冷ややかに使者を追い帰し,使者は面目を失ったという(《吾妻鏡》)。頼朝の喜悦を,頼朝の親ばかと見るか,それともその深い政治的配慮のあらわれと見るかは別にして,武家政権を確立した頼朝が,その政権の行末について2代目頼家に対し,心配となにがしかの憂慮を抱いていたことは確かであろうし,その意味でこの巻狩は頼朝がなしうる最後の仕上げの行事にほかならなかった。なお〈またぎ〉などの狩猟民が自分の特権を示す証拠として保持する書類の中には,この富士の巻狩への参加が書き加えられていることが少なくないという。頼朝自身の意図にはなかったことではあるが,結果的には狩猟民にとってもこの巻狩は重要な意味をもったのであった。
執筆者:飯田 悠紀子
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…組織的で多人数を動員し多額の経費を要するので,古くは一国の大社の祭儀もしくは将軍・諸大名のような権力者が催す狩猟法であった。富士の巻狩は源頼朝が将軍の権力によって,下野那須野,上野三原,富士山麓で催したうちの一つであるが,偶然曾我兄弟の仇討が行われたので有名になった。巻狩の本来の目的は山の神の意志をうかがうための一種の祭儀の意味をもったらしい。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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