富永仲基(読み)トミナガナカモト

デジタル大辞泉 「富永仲基」の意味・読み・例文・類語

とみなが‐なかもと【富永仲基】

[1715~1746]江戸中期の学者大坂の人。あざな子仲。号、南関・謙斎。儒学仏教神道精通。これらに歴史的・実証的批判を加えた。著「出定後語しゅつじょうこうご」「翁の文」など。

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精選版 日本国語大辞典 「富永仲基」の意味・読み・例文・類語

とみなが‐なかもと【富永仲基】

  1. 江戸中期の学者。大坂の人。字は仲子・子仲。号は謙斎・南関・藍関。通称道明寺屋三郎兵衛。懐徳堂三宅石庵に学び、後仏教思想を研究、仏典を批判的に研究して独創的な見解を示す「出定後語(しゅつじょうこうご)」を著わした。他に「説蔽」「翁の文」などがある。正徳五~延享三年(一七一五‐四六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「富永仲基」の意味・わかりやすい解説

富永仲基
とみながなかもと
(1715―1746)

江戸中期の儒学者。大坂に生まれる。通称は吉兵衛。字(あざな)は子仲または仲子。号は謙斎。父は懐徳(かいとく)堂創建の五同志の一人道明寺(どうみょうじ)屋吉左衛門(芳春、1684―1740)。幼時から懐徳堂で三宅石庵(みやけせきあん)(1665―1730)に儒学を学んだが、15、6歳のころには儒教を批判して『説蔽(せつへい)』を著し、師石庵の不興を買ったともいわれる。その後、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の親友でもあった田中桐江(たなかとうこう)(1668―1742)に師事し、その結社呉江社の一員となった。20歳のころには家を出て黄檗山(おうばくさん)で『一切(いっさい)経』の校合に従事し、仏教に対する批判力を培った。その成果は『出定後語(しゅつじょうこうご)』に著され、仏教の諸思想に歴史的批判を加える「加上(かじょう)」説が唱えられている。さらに、平易な和文で書いた『翁(おきな)の文(ふみ)』(1746)では、神儒仏三教を廃棄し、これにかわる「誠の道」を求めることを唱えた。その説は、一方では諸仏家などから非難されたが、他方、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)らに大きな影響を及ぼした。延享(えんきょう)3年8月20日、32歳で死去した。

[上田 穣 2016年6月20日]

『石浜純太郎著『富永仲基』(1940・創元社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「富永仲基」の意味・わかりやすい解説

富永仲基 (とみながなかもと)
生没年:1715-46(正徳5-延享3)

江戸中期の大坂の思想史家。字は子仲また仲子。謙斎,南関,藍関と号した。通称道明寺屋三郎兵衛。父徳通は北浜しょうゆ醸造や漬物商を営み,町人学問所懐徳堂を創建した五同志の一人。仲基も15歳ころまで初代学主三宅石庵に儒学を学んだ。近代の科学研究に先んじて中国古代思想を発展的にとらえ《説蔽(せつへい)》を著し,また仏教思想を成立史的に解明,始祖にかこつけて自説を張る過程を,〈加上〉という立論心理の法則的把握で論証した。1745年(延享2)刊の《出定後語(しゆつじようごご)》,翌年刊の《翁の文(おきなのふみ)》に所説を開陳。また宗教や倫理の形骸化を指弾し,現実に生きる〈誠の道〉を提唱。さらに言語の種々相を分析,思想の特色を規定する民族性,〈くせ〉に着目し,印度の神秘的,中国の修辞的,日本の閉鎖的傾向を指摘して,各文化類型を相対的に比較観察する視座を提唱,文化人類学的発想を先取した。
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百科事典マイペディア 「富永仲基」の意味・わかりやすい解説

富永仲基【とみながなかもと】

江戸中期の思想家。字は子仲(しちゅう),号は謙斎(けんさい),道明寺屋三郎兵衛(どうみょうじやさぶろべえ)と称する。大坂の人。父の徳通(のりみち)(芳春)は懐徳堂(かいとくどう)五人衆の一人。三宅石庵(みやけせきあん),田中桐江に学ぶ。神儒仏の経典に通じ,《出定後語(しゅつじょうごご)》《翁(おきな)の文(ふみ)》などを著した。宗教や倫理の形骸化を批判し,現実に生きる誠の道を説いた。また日本(神道),インド(仏教),中国(儒教)の思想的特色を文化類型としてとらえ,比較観察する視点を提唱,文化人類学的発想を先取りした独自の思想家として知られる。
→関連項目草間直方

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「富永仲基」の意味・わかりやすい解説

富永仲基
とみながなかもと

[生]正徳5(1715).大坂
[没]延享3(1746).8.28. 大坂
江戸時代中期の思想家。父は懐徳堂創立者の一人,道明寺屋吉左衛門。幼名は幾三郎,三郎兵衛,のち徳基,さらに仲基。字は仲子,子仲。号は南関,藍関,謙斎。 10歳のとき懐徳堂に入り,三宅石庵から陽明学を学んだ。 15歳頃『説蔽』を著わして儒学を批判し,石庵に破門されたという。その後田中桐江について詩文を学び,また家を出て黄檗版大蔵経の校合に従った。元文3 (1738) 年中国思想を研究した『翁の文』 (46) を著わした。また延享1 (44) 年仏典の比較研究を行なった『出定後語』 (2巻,45) を著わし,仏教界から激しい攻撃を受けたが,他方では猪飼敬所,本居宣長,平田篤胤らから推称された。ほかに『律略』『諸子解』『日本春秋』『長語』『短語』『尚書考』『大学考』『論語考』の著がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「富永仲基」の解説

富永仲基
とみながなかもと

1715~46.8.28

江戸中期の町人学者。父は懐徳堂創設にかかわった大坂の有力商人富永芳春。字は子仲,号は謙斎。幼少から三宅石庵に学ぶが,15~16歳頃に儒教を歴史的に批判した「説蔽(せつへい)」を著し破門されたという。その後大乗仏教説の歴史的批判書である「出定後語(しゅつじょうごご)」を著し,儒・仏・神の三教批判の上にたち,人のあたりまえに立脚する誠の道を提唱した「翁の文(おきなのふみ)」を刊行。すべての教説・言語を歴史的に相対化する仲基の視点を支えるのは,加上の法則,三物五類の説とよばれる学問的方法論で,それが近代になって高く評価され,仲基の発見と顕彰の原動力となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「富永仲基」の解説

富永仲基 とみなが-なかもと

1715-1746 江戸時代中期の思想家。
正徳(しょうとく)5年生まれ。富永芳春の子。家は大坂の醤油(しょうゆ)醸造業者。父の創設した懐徳堂で三宅石庵(せきあん)に儒学をまなび,のち仏教や神道もおさめる。「出定後語(しゅつじょうごご)」「翁の文」などの著作で,神・儒・仏三教の成立過程での後代の作為を批判,誠の道を提唱した。延享3年8月28日死去。32歳。字(あざな)は子仲,仲子。通称は三郎兵衛。号は謙斎。
【格言など】善をすれば則ち順,悪をすれば則ち逆,これ天地自然の理(ことわり),もとより儒仏の教えに待たず(「出定後語」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「富永仲基」の解説

富永仲基
とみながなかもと

1715〜46
江戸中期の町人学者
摂津(兵庫県)尼崎の人。幼少より懐徳 (かいとく) 堂に入り,醬油醸造業を営みながらも三宅石庵に陽明学を学んだ。ついで仏教・神道をも学んだが,儒・仏・神のいずれも否定して「誠の道」を求めることを主唱した。彼の思想はのち本居宣長・平田篤胤 (あつたね) にも影響を与えた。著書に『出定後語 (しゆつじようこうご) 』『翁の文』など。

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世界大百科事典(旧版)内の富永仲基の言及

【翁の文】より

…江戸中期に神,儒,仏の三教を批判した書。富永仲基著。1巻。…

【開物思想】より

…その内容は当時行われていた中国の重要産業を網羅し,それらについて知識人向けの解説を行ったものである。 朝鮮でも李朝時代に〈実事求是〉をスローガンとする実学派があったが,こうした大陸からの影響もあって,日本でも17世紀には熊沢蕃山が儒学を単なる名分論ではなく,利用厚生論として発展させ,18世紀には富永仲基や大坂の懐徳堂派の学風が町人的実学を進め,さらに皆川淇園,林子平,工藤平助,本多利明,佐藤信淵などの開物思想家が輩出した。それは信淵によれば,〈国土を経営し,物産を開発し,境内を豊饒にし,人民を蕃息せしめる業〉という国土開発・産業開発の事業を展開させようとする考え方であった。…

【出定後語】より

…江戸中期の仏教思想史論。富永仲基著。2巻。…

※「富永仲基」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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