改訂新版 世界大百科事典 「寛文延宝検地」の意味・わかりやすい解説
寛文・延宝検地 (かんぶんえんぽうけんち)
寛文~延宝期(1661-81)に関東および畿内の天領を中心にして実施された検地。この検地のねらいは,近世初頭以来の農業生産力の発展を基礎にして自立した小農を,米納を基軸にした生産物年貢の負担者として領主が直接に掌握しようとするものであった。したがって幕藩体制社会の基本原理たる石高制を直接生産者のもとに貫徹させてゆく検地であった。17世紀前半期には,米を中心にした生産物地代が基本的な地代に位置づけられながらも,同時に副次的な地代として陣夫役を中心にした労働地代が併存していた。陣夫役の負担者は中世以来の名主(みようしゆ)の系譜を引く初期本百姓であり,初期村落の内部では役家(やくや),役人,公事屋(くじや),御館(おやかた)などと呼ばれて村落上層部を占めていた。近世農業の基本的な担当者たる小農は,初期村落の内部で生産=生活の全般にわたって初期本百姓の支配と庇護を受けていた。しかし17世紀後半期には小農の自立が急速にすすみ,17世紀末ごろ(元禄期)までには,自立した小農を構成員とする小農村落が成立し,小農が本百姓になって年貢の現実の負担者となる。小農の自立とともに知行形態も変化し(地方知行から俸禄制への移行),陣夫役=労働地代の徴収が廃止されて米を中心にした生産物地代に一本化される。17世紀後半期における上述の推移は,慶安・明暦検地にはじまり,寛文・延宝検地で推進され,元禄検地でほぼ完了する。
寛文・延宝検地は,関東では1668年(寛文8)と78年(延宝6)とを中心にして実施され,畿内では1676-78年ころに実施されている。寛文・延宝検地では,検地竿を短縮し(古検6尺3寸竿から6尺1寸竿へ),新規竿入れ処の基準を厳しくし,測量方法の厳密化をはかったが,畿内では検地による出高や新開高が意外に少量である。たとえば河内国丹北郡更池(さらいけ)村では,出高27石4斗余,新開高1石1斗弱,計28石4斗8升6合(村高の17.4%)である。関東では村高や田畑面積の増加が著しい。関東と畿内とのこの差異は,小農生産の発展度の差である。関東に比較して小農の自立の度合が相対的に強い畿内では,小農生産に適合的な生産力発展(労働多投による集約的技術による反収増加)が進み,小農自立の相対的に弱い関東では,小農を隷属させる村落上層農民に適合的な生産力発展(耕地面積の拡大による収穫量の増大)の方向が追求された。しかし,そのような条件下でも,17世紀を通じて徐々に小農が自立し,それが寛文・延宝検地を必然化させた。寛文・延宝期には百姓の家数が急速に増大するが,検知帳の記載事項の中にも小農の自立過程が反映している。
執筆者:葉山 禎作
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