改訂新版 世界大百科事典 「役家」の意味・わかりやすい解説
役家 (やくや)
領主の徴発する夫役(ぶやく)を負担する家を〈公事家(くじや)〉〈役家〉などと呼んだ事例は地域によって戦国時代にもみられるが,全国的規模で〈公儀の役〉負担の家が,役家ないし役屋として制度化されたのは,いわゆる太閤検地実施以後とみられる。戦国期から近世初期のころには,農民を陣夫役,普請役等として徴用・動員することが多く,領主にとって夫役負担能力をあらかじめ確認しておくことは重要であった。太閤検地とこれに続く近世初期検地が,全国的に統一基準による土地生産力の調査を石高制として確立したとき,同時に特定の屋敷所持を認める形で,夫役の負担能力を有する役家を設定する場合や,検地とは別に〈家数人馬改〉によってそれを決定するなどのことが行われた(家数人馬改帳)。江戸時代,出雲松江藩や豊前小倉藩の場合,その特定屋敷は一律3畝歩が無年貢の扱いで,〈御役(目)屋敷〉と呼ばれ,その屋敷を請けた農民は〈公儀役人〉〈役家〉〈本百姓〉などと記されている。
太閤検地に始まる近世検地では,原則として事実上の耕作者を公式の作人とする方針が貫かれたので,検地帳に零細な石高所持の作人として登録された小農民が少なくなかったが,彼らは所持石高の貢租は負担したが,夫役の負担はなかった。すなわち,領主の貢租・夫役の徴収は,それぞれ村高と村ごとの役家数を基準として賦課されたが,いずれも村請として行われたので,領主に対する村請の主体とされたのは,役家=本百姓にほかならなかった。これを役家制と呼んでいる。近世の村で一般に役家制の認められるのは,いわゆる太閤検地の段階から17世紀後半寛文・延宝(1661-81)ころまでの間である。その後は一般に夫役も石高基準で賦課されるようになり,石高所持農民はすべて役家=本百姓となる。
役家制を中世名主職(みようしゆしき)の近世的確認とみる説や,名主職とはみないまでも,役家の非役家に対する名主制的支配を認めようとする説がある。しかし,これは太閤検地以後の,きびしい作合(さくあい)否定政策の貫徹と,村請制の意義を無視するものと批判されている。ただ近世初期検地の段階における小農民経営の一般的不安定性は,彼らが零細とはいえ石高所持の農民であるだけに,貢租村請制の主体である役家層にとっても,その再生産は関心事たらざるをえない。農民層の間にきびしい作合否定政策が貫徹される近世初期農村構造の内部単位として,個々の役家層と非役家層の構成する〈惣領制的小共同体〉ないし〈族縁的小協業体〉などの存在が指摘されるゆえんである。それが17世紀を通じてみられる飛躍的な生産力増大と,その後半における領主側の農政転換により,小農民経営の著しい発展と,役家層に一般的にみられる名田地主経営の解体が進み,村は単一的な小農民の構成する村共同体となり,役家制も解消されていった。
執筆者:後藤 陽一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報