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放生津 ほうじょうづ

大辞林 第三版の解説

ほうじょうづ【放生津】

富山県射水いみず市の古名。中世、日本海側の海陸交通の要衝として栄えた。

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世界大百科事典 第2版の解説

ほうじょうづ【放生津】

越中国放生津潟の北西側と日本海岸(奈呉の海)に接する中世以来の湊町(現,富山県新湊市)。中世は大袋(おおい)荘に属し,日本海側の海陸交通の要衝であった。鎌倉時代には守護所が置かれたが,いつからかは不明である。守護名越氏が放生津に在地した徴証は鎌倉末期であり,《太平記》には1333年(元弘3)六波羅の敗報で在地勢が離反したため,守護名越時有の兄弟妻子が放生津で敗死した悲話を伝えている。建武政権の崩壊後,放生津はしばしば南朝方の拠点となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

放生津
ほうじょうづ

富山県射水市(いみずし)、庄川(しょうがわ)河口の富山新港の位置にあった都市。地名は条里制の北条に由来する、また、海岸部の奈呉浦(なごのうら)で、殺生を戒める神事の放生会(ほうじょうえ)が行われたことにちなむなどと言われている。中世は射水郡大袋荘(おおいのしょう)に属する湊町として知られ、鎌倉時代には越中国守護所が置かれた。『太平記』には、1333年(正慶2・元弘3)倒幕軍に攻められた守護名越時有(なごえときあり)一族が放生津城に火を放って自害したという悲話がある。室町期には守護代神保氏(じんぼし)の支配下に置かれ、1493年(明応2)には細川政元に京を追われた足利義稙(よしたね)が神保氏を頼って下向し、再起を図って1498年まで滞在している。戦国期には神保・長尾両氏の争いをはじめ戦乱が続いたが、1576年(天正4)上杉謙信の越中支配時には楽市楽座が認められ、賑わった。江戸時代には越中の中心地としての湊町に活路を見出した。[溝口常俊]

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世界大百科事典内の放生津の言及

【越中国】より

…その由緒で承久の乱には北条朝時が北陸道大将軍となって西上,これ以後,鎌倉時代を通じてその子孫の名越氏が守護職を世襲した。しかし守護名越氏もその守護代もともに鎌倉にあって,在地では又守護代が職務を代行し,守護所は放生津に置かれた。また名越氏と被官関係にあった地頭代(岡成,土肥,椎名氏等)が鎌倉幕府内における名越氏の権勢を背景として所領支配を拡大強化し,南北朝期以降に国人として発展する基礎を築いた。…

【新湊[市]】より

…人口3万8491(1995)。古くは奈呉,放生津(ほうしようづ)と呼ばれ,鎌倉時代の守護所,加賀藩時代の蔵宿がおかれるなど,この地方の中心であった。江戸時代には北前船をはじめ回漕業が盛んであった。…

※「放生津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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