小出村(読み)こいでむら

日本歴史地名大系 「小出村」の解説

小出村
こいでむら

[現在地名]長井市本町もとまち一―二丁目・あら町あらまち中道なかみち二丁目・神明町しんめいちよう片田町かたたまちままの上ままのうえ清水町しみずちよう二丁目・四ッ谷よっや一―二丁目・館町北たてまちきた館町南たてまちみなみ東町ひがしまち屋城町やしろまち舟場ふなば栄町さかえまち花作町はなづくりまち出町でちよう台町だいまち・小出

みや村の南にあり、おもな集落は最上川左岸、川によって形成された扇状地上に位置する。村内には町場が形成され、隣接する宮村の町場とともに長井地方の経済の中心地の一つであった。金井神かないがみなどの支集落が東方対岸にある。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「三十仁〆八百文 こいて」とある。伊達氏天文の乱のさなかの同一四年九月二一日、伊達晴宗は宮一円、「越手一円」など三所を片倉伊賀九郎右衛門に与えているが、この「越手」は当地のことと思われ、翌月九日、三所の棟役・田銭・諸公事を免除している(伊達正統世次考)。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、鮎貝兵庫に与えられた成田なりた白兎しろさぎ草岡くさおかなどを本領としていた中野常陸介は、同一一年まで原田内記の知行していた「下長井小出」(当時は伊達氏蔵入)を残らず与えられた。ほかに庄司乳母・中野常陸介は小出のうち片倉図書より買った「大橋在家」を与えられた。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一千六一〇石余、免三ツ、家数八九(うち役家二〇)・人数四九一、役木として漆・桑をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は中、修正前の高は一千七一〇石余。

長井市史」によれば、慶長六年(一六〇一)上杉景勝の米沢入部頃には宮村に通ずる南北路沿いに、同村川原かわら町に接する本町、同町の南にあら町、粡町の南から東へ延びる新立あらだて(荒館・粡館とも記す)などの町場が形成されていたと思われ、寛永一五年(一六三八)の検地以後、肝煎は二人制となり、本町下(在方)・粡町下(町方)に分けられた。

小出村
こいでむら

[現在地名]伊那市大字西春近にしはるちか 小出一―三区・小出島

天竜川を隔てて東は殿島とのしま村に対し、西山より流れて天竜川に合流する小黒おぐろ川を北の境とし、南は藤沢ふじさわ川に至る段丘の上下と山麓に発達した村。天竜川に注ぐ小沢が多く、段丘上には東向きの大小の谷が作られている。

鎌倉時代に幕府の御家人であった小井弖こいで氏がこの地を本拠として栄え、小井弖氏の譲状や争論に対する幕府の裁許状など五通が工藤文書として伝わっている。小井弖の初見は工藤文書のうちの建長三年(一二五一)二月五日の小井弖能綱譲状案で、「ふちはらのもろよし(藤原師能)に譲りわたすちうたい相伝の所領こゐてふたよしのしし(四至)さかいのこと」とある。「こゐてふたよし」が「こいて」と「ふたよし」と二ヵ所をいうのか、一ヵ所をさしているのかは不明である。文書の内容は能綱はその子師能に地頭職などを譲るというものであるが、それに対する将軍家政所下文案(工藤文書)は次のとおりである。

小出村
こいでむら

[現在地名]富山市水橋小出みずはしこいで

白岩しらいわ川右岸の穀倉地で、北西は西光寺さいこうじ村。南から西を小出川が流れる。鎌倉期に川底から一寸八分の黄金仏が出現し、人々はこの地のために「おいで(御出)」になったと喜び、オイデと名付けたのが村名の由来という(水橋町郷土史)。中世の小井手こいで保の遺称地とされ、戦国期には小出城があった。慶長八年(一六〇三)二月七日の前田利長知行所付(「神尾氏等判物写」加越能文庫)によると「中郡小出村」の三〇石余が改田小左衛門尉の知行地となっている。正保郷帳では高一千一五四石余、田方六九町九反余・畑方七町余、新田高二八石余。

小出村
こいでむら

[現在地名]下郷町小沼崎おぬまざき

現下郷町の北部、阿賀川の左岸平地と小野おの岳の東麓丘陵に立地。会津若松から下野へ至る南山松川みなみやままつかわ(松川新道・宇都宮街道とも)が通る。村内の居平いだいら寺平てらだいら阿久戸あくとにそれぞれ縄文時代中期から弥生時代の土器が出土する遺跡がある。阿賀川左岸の古屋敷ふるやしきとよばれる地に小出館跡、別に小出塁がある(会津鑑)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に村名がみえ、高一二二石余。南山御蔵入領小出組に属し、郷頭が置かれていた。寛文五年(一六六五)の「土地帳南山小出組八箇村」によれば高一六八石余、免四ツ六分、年貢は金納で二四両余、反別田二町余・畑一九町四反余、家数二〇・竈数二三、人数男七八・女六六、馬五。

小出村
こいでむら

[現在地名]松山町山寺やまでら

松山城下の南東にあり、東は出羽山地、西は最上川を境に福原ふくわら(現東田川郡余目町)。「寛文朱印留」に村名がみえる。天明七年(一七八七)の高辻帳(山寺区有文書)では高八四石余。天保一五年(一八四四)には免四ツ五厘、家数四七(「高辻并留」松山町資料館蔵)。江戸初期に小出新田村を開発し、元禄一三年(一七〇〇)には地内に新川を掘る最上川の普請が奉行図司弥兵衛によって行われた(松山藩史料)

小出村
こいでむら

[現在地名]上川村小出

常浪とこなみ川の支流東小出川の中流部に位置する。「新編会津風土記」では四区に分れ、東岐ひがしまたは家数二三、東の長坂ながさかは六、北東の牧野まきのは一五、同じく武須沢入ぶすぞうりは一四とある。文禄三年(一五九四)七月の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「小出 部須沢入 三百拾七石三升」とある。承応元年(一六五二)の高は三三二石七斗余で、免三ツ七分・定納であるが、不作のため一七石八斗余が減免されている。

小出村
こいでむら

[現在地名]長野市若穂川田かわだ 小出

太郎たろう山西方で、北西の葛巻かつらまき山・南西のまえ山に分岐した支脈間の崖錐と、前面保科ほしな川右岸に広がる扇状地からなる小村で、東・南は保科村、西は川田村東川田、北は綿内わたうち春山はるやま田中たなかである。綿内村境に条里的遺構の水田が広がる。

古代、「和名抄」記載の穂科ほしな郷の一部。諏訪社上社の神使御頭を定めた守矢満実書留の文明四年(一四七二)正月の条に、「大県介、保科、小井手」「保科、小井手次郎丸代始、御符礼一貫八百、孫六使」がみえ、同年二月に小井手次郎丸が「御左口神礼一貫文、皮百」を納めたことがみえる。

小出村
こいでむら

[現在地名]神林村小出

いし川左岸にあり、南は上有明かみありあけ村・下有明村、北は殿岡とのおか村、西は大塚おおつか村に接する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「大国但馬分小出村 中」とみえ、本納二一三石一斗三升四合・縄高三三三石七斗九升二合、家一五軒とある。また北方とのおか川(石川)左岸に沿って「大国但馬分あら屋敷村 上」が記され、本納九七石五斗五升・縄高二六石五斗五升、家四軒。近世は村上藩領。正保国絵図では高三七〇石余。享保三年(一七一八)の村明細帳(板垣総兵衛氏蔵)によれば本田畑三〇町七反三畝余・新田畑二町一反一畝余、家数四六・人数二一八、馬八。

小出村
おいでむら

[現在地名]菊川町小出

半済はんせい村の南西、菊川左岸に位置する。天正四年(一五七六)八月七日の渡辺信重書下(華蔵院文書)で、「笠原庄及出村之妙秀寺領」が順易東堂に寄進されている。この「及出村」は当地のことであろう。正保郷帳に小出村とみえ、田方二一四石余・畑方四二石余、「松山」「芝山」の注記がある。横須賀藩領(七石余)と旗本井上領(二四九石余)の相給。「寛文朱印留」でも相給状態に変化はない。国立史料館本元禄郷帳では井上領と三河吉田藩領の相給。享保郷村高帳では井上領二四九石余、旗本太田領七石余。

小出村
こいでむら

[現在地名]新発田市小出

繁山しげやま新田の東、西流して坂井さかい川に注ぐ小出川に沿う。同川の南、字たてうちの段丘端には中世の館跡があり、上流五斗蒔ごとまきには山城跡が残る。近世ははじめ村上藩領で、正保国絵図に村名がみえ、高五四石余。延宝九年(一六八一)頃の高反別免割家数人数帳(寛政一二年写、新発田市史資料)によると蔵光組に属し、高五三石八斗余、免四ツ三分、田畑四町六反余、家数五、人数七五。

小出村
こいでむら

[現在地名]雄物川町薄井うすい

雄物川東岸、北流する大宮おおみや川の左岸に位置し、西部で薄井村と接する。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に家数九軒とある。「雪の出羽路」には沼館ぬまだてから分れたという。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳では当高一二三石余で、うち蔵分一斗一升、給分一二三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報