小島町(読み)こじままち

日本歴史地名大系 「小島町」の解説

小島町
こじままち

[現在地名]富山市小島町・新川原町しんかわらまち

北横きたよこ町の北に続き、北流するいたち川左岸に沿う。町並南端付近を西に折れると下川原しもかわら町に至る。田地方のうち。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図、万治年間富山旧市街図町名がみえる。江戸時代初頭、当地と神通川左岸を結ぶ舟渡し、ないしは船橋があったとみられ、慶長一一年(一六〇六)三月五日の前田利長申付状(「船橋原由之事」前田家文書)に「船橋小島町船頭共居屋敷之事」とみえ、以前と同じく当地の船頭などの屋敷を地子免除とすることが小島民部に申付けられている。

小島町
こじまちよう

上京区室町通武者小路下ル

町の中央を南北室町むろまち通が通り、南は一条いちじよう(旧一条大路)。平安京の条坊では、左京北辺坊三坊の一条大路の一部が小島町の南部に含まれる。

応永三二年(一四二五)一一月一〇日付酒屋交名(北野天満宮史料)から、この辺りに酒屋があったことがわかる。また、「応仁記」応仁元年(一四六七)正月一七日条に「一条室町より、上は光照院殿まで尺寸の地をも、不余続踵充満たり」とこの辺りが戦場となったことを記す。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「小じま町」、寛永一八年以前平安城町並図には「小嶋町」と記される。

小島町
こじままち

[現在地名]北区西天満にしてんま三丁目

難波橋なにわばし筋を挟んで西樽屋にしたるや町の西にあり、東西に延びる両側町。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図に町名がみえる。大坂三郷天満組に属し、元禄一三年(一七〇〇)の三郷水帳寄帳では屋敷数四九・役数五八役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。年寄は錺屋四郎兵衛。「難波鶴」に「すっぽんや」が載り、延享版「難波丸綱目」によると対馬国問屋一、絵師法橋安村江阿弥・俳諧師井口素兄がいた。

小島町
こじまちよう

東山区松原通大和大路東入三丁目下ル

六波羅東ろくはらひがし通に位置。東は東山ひがしやま通(現東大路ひがしおおじ通)、西は六波羅東ろくはらひがし通。明治二年(一八六九)従来の東・西興善町及び寺林てらばやし町を再編して成立した町である。当町はもとの東興善町にあたる。

小島町
こじまちよう

下京区高辻通烏丸西入下ル

南北に通る諏訪町すわんちよう通を挟む両側町。

平安京の条坊では左京五条三坊三保一二町にあたる。

町名は寛永一八年(一六四一)以前平安城町並図をはじめとする木版図には「かんき町」とあり、「坊目誌」にも「元禄以前がんぎ町と呼べり」と記す。しかし寛永一四年洛中絵図には「ほねや町つきぬけ」とあり、両者が併用されたことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android