幕末の政治家。明治初期の新聞記者。名を鯤(こん)、通称瀬兵衛(せへえ)。匏庵(ほうあん)・鋤雲と号し、安芸守(あきのかみ)を称する。幕府の医官喜多村槐園(きたむらかいえん)の三男。同じく医官の栗本氏の養子となり、1850年(嘉永3)内班侍医となったが、上司の忌諱(きき)に触れて1858年(安政5)蝦夷地(えぞち)移住を命ぜられた。10年間を箱館(はこだて)に過ごし、この間フランス人宣教師メルメ・ド・カションEugène-Emmanuel Mermet de Cachon(1828―1889)と親交を結び、1862年(文久2)士籍に列し幕臣となってから一貫して親仏派の領袖(りょうしゅう)として幕末外交史上に活躍した。
1864年(元治1)目付に任じ、横浜鎖港談判にあたり、翌1865年外国奉行(ぶぎょう)となる。この間、フランス軍事顧問団の招聘(しょうへい)、横須賀造船所の設立に尽力し、フランス文化の移植と殖産興業に努めた。1867年(慶応3)に渡仏した将軍名代徳川昭武(とくがわあきたけ)(1853―1910)をたすけてフランスに派遣され、幕仏間の親善を図ったが、幕府倒壊により1868年帰国。その後一時世間との交渉を断ったが、1872年『横浜毎日新聞』に入り、翌1873年『郵便報知新聞』(『報知新聞』の前身)に編集主任として招かれ、1885年に同社を退くまで才筆を振るい、成島柳北(なるしまりゅうほく)、福地桜痴(ふくちおうち)らとともに声名をはせた。その間、1878年には東京学士会員に推された。60余編の遺著が『匏庵遺稿』に収められている。
[加藤榮一]
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幕臣,ジャーナリスト。幕府医官喜多村槐園の第3子として江戸神田猿楽町に生まれる。栗本氏を継いで瑞見または瀬兵衛,匏菴(ほうあん)と号す。鋤雲は別号であったが,のち通称とする。1848年(嘉永1)幕府奥詰医官となるが,52年職を解かれ箱館に移住。病院,薬園などの造成に尽力。63年江戸に戻り昌平黌頭取,目付に任ぜられ,親仏派として列強との外交交渉にあたる。軍艦奉行,67年外国奉行としてフランスへいく。滞仏中維新にあい,帰国後小石川大塚に隠退。73年《郵便報知新聞》に編集主任として入社。論説は古沢滋らに任せて全体を統括し,自らは随筆(〈出鱈目〉〈五月雨〉など)を書く。新聞の権威を高め,85年退社。小石川大塚で悠々自適。著書に《匏菴十種》(1869),《匏菴遺稿》(1900)。
執筆者:香内 三郎
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