三野村利左衛門(読み)みのむらりざえもん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「三野村利左衛門」の意味・わかりやすい解説

三野村利左衛門
みのむらりざえもん
(1821―1877)

幕末・明治初期の三井家大番頭。父関口松三郎は庄内(しょうない)藩士三男であったが、浪人して諸国を流浪したので、利左衛門も辛酸をなめた。19歳のとき江戸に入り、深川の干鰯(ほしか)問屋丸屋へ住み込み奉公をした。丸屋のつてで幕府勘定奉行(ぶぎょう)小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)の雇仲間となり、25歳のとき美野川利八の婿養子となり、襲名する。32歳で零細な両替店を開いた。小判売買の才を三井の番頭斎藤専蔵に認められ、三井家に出入りするようになった。1866年(慶応2)三井御用所に雇われ、小栗との縁故を利用して、幕府の御用金の減額に成功し、三井家の危機を免れさせた。維新後は政府の各種の御用を務めるかたわら、三井家の家制と家業改革に着手し、呉服業を分離し、三井銀行と三井物産会社の創設に尽力した。三井に入ってから三野村利左衛門を名のった。1877年(明治10)三井家改革が定着しない段階で病死した。

[安岡重明]

『三野村清一郎著『三野村利左衛門伝』(1969・三野村合名会社)』『三井文庫編・刊『三井事業史 本篇第1、第2巻』(1980)』

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百科事典マイペディア 「三野村利左衛門」の意味・わかりやすい解説

三野村利左衛門【みのむらりざえもん】

幕末・維新期の三井家大番頭。実業家。信濃百姓の子という。小栗忠順(ただまさ)の仲間奉公などをしていたが,江戸に出て神田紀伊国屋の婿養子となる。1852年両替屋の株を買い入れる。三井に命じられた幕府御用金の減免交渉をきっかけとして1866年三井家の使用人になり,戊辰(ぼしん)戦争の時三井家を朝廷側に付かせた。維新後は三井家政改革の全権を委任され,井上馨渋沢栄一らと結び,三井銀行(三井組御用所の後身)頭取として三井財閥の基礎を固めた。
→関連項目三井財閥

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三野村利左衛門」の意味・わかりやすい解説

三野村利左衛門
みのむらりざえもん

[生]文政4(1821).11.1. 長野
[没]1877.2.21.
幕末~明治初期の三井家の大番頭。天保5 (1834) 年 14歳で伊丹へ出て酒造家に奉公し,19歳で江戸へ入り,弘化2 (45) 年油問屋紀伊国屋利八の手代となり,のちに小栗忠順に認められ,その斡旋で養子となった。嘉永5 (52) 年両替屋を開業,さらに三井家手代三野村家を継いで三野村利左衛門と改める。慶応2 (66) 年三井御用所の責任者となり,新政府の指導者グループと関係を密にし,三井を政商として発展させた。 1873年発起人となって国立第一銀行を設立。また同年のちの三井合名である大元方統轄となり,76年三井銀行,三井物産を設立,この2社が三井財閥形成の跳躍台になった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三野村利左衛門」の解説

三野村利左衛門 みのむら-りざえもん

1821-1877 幕末-明治時代の商人。
文政4年11月10日生まれ。出羽(でわ)鶴岡藩(山形県)の浪人の子という。江戸で両替屋となり,幕府勘定奉行小栗忠順(ただまさ)の仲間(ちゅうげん)だった縁故で,三井家に課せられた御用金の軽減に尽力。慶応2年三井家番頭となり,維新後は三井家政の改革,三井銀行創設を主導した。明治10年2月21日死去。57歳。
【格言など】凡百の事,繁を省き簡をとれ

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