朝日日本歴史人物事典 「三野村利左衛門」の解説
三野村利左衛門
生年:文政4.11.10(1821.12.4)
幕末維新期の実業家。庄内(鶴岡)藩関口松三郎(木村利右衛門)の次男。父が出奔,浪人となったため,諸国を放浪した。やがて江戸へ出て,小栗忠順の仲間奉公などをしていたが,25歳で神田三河町の紀ノ(伊)国屋という小商人の婿養子となり,利八を名乗った。嘉永5(1852)年脇両替屋の株を買い取った。買い集めた天保小判を三井両替店に売るなど三井とは取引があったが,小栗と親しかったことから,三井に課せられた御用金の減免交渉をしたことをきっかけとして,新たに設けられた三井御用所に,慶応2(1866)年11月「御用所限,通勤支配格」という破格の待遇で雇い入れられた。このとき利左衛門と改名した(すでに姓は三(美)野村と称していたとする記録もある)。 三井に入ってのちも昇進を続け,維新後三井も参加した貿易商社の設立を主導,これが通商会社に再編成された。このほか通商会社に金融を提供する為替会社も設立され,利左衛門は両社の総差配司に就任した。明治6(1873)年1月同族,手代が対等に議論できる報効(義)会を組織したが,同年4月三井家の家政改革の全権を委任され,三井両替店,御用所などが統合された三井組の財産が「主従持合ノ身代」であるとする「大元方改正条目」を7年8月に作成した。7年10月の官金抵当増額令に際しては,必要とされた増抵当をオリエンタル・バンクから借入金を行うことで調達し,三井倒産の危機を救った。三井組の再編成に取り組み,9年7月私盟会社三井銀行を発足させ,総長代理副長に就任した。主従持ち合いの理念から,同行には従業員も出資していた。同年11月米穀,石炭などを扱う三井物産会社の監督役に就任。なお同年10月には功労に対して,三井家の土地と建物が贈られている。主従持ち合いという特異な理念を持ちつつ,幕末維新期の三井家を支えた人物といえる。<参考文献>三野村清一郎『三野村利左衛門伝』,三野村暢禧「紀伊国屋時代の利左衛門」(『拓殖大学論集』137号),三井文庫編『三井事業史』
(粕谷誠)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報