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三野村利左衛門 みのむらりざえもん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

三野村利左衛門
みのむらりざえもん

[生]文政4(1821).11.1. 長野
[没]1877.2.21.
幕末~明治初期の三井家の大番頭。天保5 (1834) 年 14歳で伊丹へ出て酒造家に奉公し,19歳で江戸へ入り,弘化2 (45) 年油問屋紀伊国屋利八の手代となり,のちに小栗忠順に認められ,その斡旋で養子となった。嘉永5 (52) 年両替屋を開業,さらに三井家手代三野村家を継いで三野村利左衛門と改める。慶応2 (66) 年三井御用所の責任者となり,新政府の指導者グループと関係を密にし,三井を政商として発展させた。 1873年発起人となって国立第一銀行を設立。また同年のちの三井合名である大元方統轄となり,76年三井銀行,三井物産を設立,この2社が三井財閥形成の跳躍台になった。

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百科事典マイペディアの解説

三野村利左衛門【みのむらりざえもん】

幕末・維新期の三井家大番頭。実業家。信濃の百姓の子という。小栗忠順(ただまさ)の仲間奉公などをしていたが,江戸に出て神田紀伊国屋の婿養子となる。1852年両替屋の株を買い入れる。
→関連項目三井財閥

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

三野村利左衛門 みのむら-りざえもん

1821-1877 幕末-明治時代の商人。
文政4年11月10日生まれ。出羽(でわ)鶴岡藩(山形県)の浪人の子という。江戸で両替屋となり,幕府勘定奉行小栗忠順(ただまさ)の仲間(ちゅうげん)だった縁故で,三井家に課せられた御用金の軽減に尽力。慶応2年三井家番頭となり,維新後は三井家政の改革,三井銀行創設を主導した。明治10年2月21日死去。57歳。
格言など】凡百の事,繁を省き簡をとれ

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朝日日本歴史人物事典の解説

三野村利左衛門

没年:明治10.2.21(1877)
生年:文政4.11.10(1821.12.4)
幕末維新期の実業家。庄内(鶴岡)藩関口松三郎(木村利右衛門)の次男。父が出奔,浪人となったため,諸国を放浪した。やがて江戸へ出て,小栗忠順の仲間奉公などをしていたが,25歳で神田三河町の紀ノ(伊)国屋という小商人の婿養子となり,利八を名乗った。嘉永5(1852)年脇両替屋の株を買い取った。買い集めた天保小判を三井両替店に売るなど三井とは取引があったが,小栗と親しかったことから,三井に課せられた御用金の減免交渉をしたことをきっかけとして,新たに設けられた三井御用所に,慶応2(1866)年11月「御用所限,通勤支配格」という破格の待遇で雇い入れられた。このとき利左衛門と改名した(すでに姓は三(美)野村と称していたとする記録もある)。 三井に入ってのちも昇進を続け,維新後三井も参加した貿易商社の設立を主導,これが通商会社に再編成された。このほか通商会社に金融を提供する為替会社も設立され,利左衛門は両社の総差配司に就任した。明治6(1873)年1月同族,手代が対等に議論できる報効(義)会を組織したが,同年4月三井家の家政改革の全権を委任され,三井両替店,御用所などが統合された三井組の財産が「主従持合ノ身代」であるとする「大元方改正条目」を7年8月に作成した。7年10月の官金抵当増額令に際しては,必要とされた増抵当をオリエンタル・バンクから借入金を行うことで調達し,三井倒産の危機を救った。三井組の再編成に取り組み,9年7月私盟会社三井銀行を発足させ,総長代理副長に就任した。主従持ち合いの理念から,同行には従業員も出資していた。同年11月米穀,石炭などを扱う三井物産会社の監督役に就任。なお同年10月には功労に対して,三井家の土地と建物が贈られている。主従持ち合いという特異な理念を持ちつつ,幕末維新期の三井家を支えた人物といえる。<参考文献>三野村清一郎『三野村利左衛門伝』,三野村暢禧「紀伊国屋時代の利左衛門」(『拓殖大学論集』137号),三井文庫編『三井事業史』

(粕谷誠)

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

三野村利左衛門
みのむらりざえもん
(1821―1877)

幕末・明治初期の三井家の大番頭。父関口松三郎は庄内(しょうない)藩士の三男であったが、浪人して諸国を流浪したので、利左衛門も辛酸をなめた。19歳のとき江戸に入り、深川の干鰯(ほしか)問屋丸屋へ住み込み奉公をした。丸屋のつてで幕府の勘定奉行(ぶぎょう)小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)の雇仲間となり、25歳のとき美野川利八の婿養子となり、襲名する。32歳で零細な両替店を開いた。小判売買の才を三井の番頭斎藤専蔵に認められ、三井家に出入りするようになった。1866年(慶応2)三井御用所に雇われ、小栗との縁故を利用して、幕府の御用金の減額に成功し、三井家の危機を免れさせた。維新後は政府の各種の御用を務めるかたわら、三井家の家制と家業の改革に着手し、呉服業を分離し、三井銀行と三井物産会社の創設に尽力した。三井に入ってから三野村利左衛門を名のった。1877年(明治10)三井家改革が定着しない段階で病死した。[安岡重明]
『三野村清一郎著『三野村利左衛門伝』(1969・三野村合名会社) ▽三井文庫編・刊『三井事業史 本篇第1、第2巻』(1980)』

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