山内豊信(やまうちとよしげ)(読み)やまうちとよしげ

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

山内豊信(やまうちとよしげ)
やまうちとよしげ
(1827―1872)

幕末期の土佐藩主。文政(ぶんせい)10年10月9日生まれ。分家山内豊著(とよあきら)の長男、宗家豊惇(とよあつ)の養子。1848年(嘉永1)15代目の藩主となり、隠居後、容堂(ようどう)と号す。分家出身のため苦労したが、ペリー来航後の対外的危機の緊迫のなかで、開明的な吉田東洋(よしだとうよう)らを登用して藩政の改革を推進。あわせて将軍継嗣(けいし)問題に関係し、雄藩連合運動を進めた。松平慶永(まつだいらよしなが)(春嶽(しゅんがく))、島津斉彬(しまづなりあきら)、伊達宗城(だてむねなり)とともに「天下の四賢侯」といわれるゆえんである。1859年(安政6)安政(あんせい)の大獄に際し、家督を豊範(とよのり)(豊惇の弟)に譲り隠居したが、幕府からはさらに謹慎を命ぜられる。翌年謹慎を解かれてからは、将軍徳川家茂(とくがわいえもち)に随従して上洛(じょうらく)するなど、松平慶永、伊達宗城らと公武合体を周旋。他面、1863年(文久3)秋から翌年(元治1)にかけて、武市瑞山(たけちずいざん)らの尊攘(そんじょう)派を弾圧するとともに、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らの開明派を登用した。その政治的立場は、幕府独裁には反対するが、尊攘討幕の路線にもたたず、雄藩諸侯の協調による封建的分権制を温存する幕政改革にあった。そのことから、幕府と薩長(さっちょう)との対立のなかで、絶えず妥協的な動きを示すこととなった。そのため、1867年(慶応3)に後藤象二郎が坂本龍馬(さかもとりょうま)の影響を受けて大政奉還論を展開したとき、この主張が武力行使を伴わず、藩体制の温存に役だつと考えて支持し、自ら幕府に建白した。また王政復古後、新政府の議定(ぎじょう)となったが、直後の12月9日夜開かれた小御所(こごしょ)会議において、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に「辞官納地」を迫る岩倉具視(いわくらともみ)と大激論したのも同じことであろう。容堂の酒好きは有名で、激論した小御所会議にも酔って出席しており、伊達宗城からは「酔狼君(すいろうくん)」とあだ名されている。また自ら「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称したほどであった。交遊の深かった松平慶永らとともに、幕末の政治過程において、開明的藩主として改革的ではあるが妥協的な存在として知られる。明治5年6月21日没。

[池田敬正]

『平尾道雄著『山内容堂』(1961・吉川弘文館)』


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