20世紀日本人名事典 「山田 耕筰」の解説
山田 耕筰
ヤマダ コウサク
大正・昭和期の作曲家,指揮者
- 生年
- 明治19(1886)年6月9日
- 没年
- 昭和40(1965)年12月29日
- 出生地
- 東京
- 学歴〔年〕
- 東京音楽学校(現・東京芸術大学)声楽科〔明治41年〕卒,ベルリン高等音楽学校卒
- 主な受賞名〔年〕
- レジオン・ド・ヌール勲章〔昭和11年〕,朝日文化賞(昭15年度)〔昭和16年〕,NHK放送文化賞(第1回)〔昭和24年〕,文化功労者〔昭和29年〕,文化勲章〔昭和31年〕
- 経歴
- 明治43年ベルリンに留学。ベルリン高等音楽学校でカール・レオポルト・ヴォルフに師事。留学中はR.ワグナー、J.シュトラウスの作品に深く傾倒。卒業制作に日本人による初めての交響曲「かちどきと平和」、合唱と管弦楽のための「秋の宴」を作曲。大正3年帰国。同年日本で最初の交響楽団、東京フィルハーモニーを組織し、帝国劇場などで自作を発表。翌年解散。5年小山内薫と共に新劇場を結成。9年日本楽劇協会を発足させてオペラ運動を興し、11年北原白秋と雑誌「詩と音楽」を創刊。以後白秋の詩による歌曲「ペイチカ」「待ちぼうけ」など多数発表。13年日本交響楽協会(NHK交響楽団の母体)を創設して全国を巡演、交響楽の普及にもつとめた。その間、アメリカ、フランス、ソ連で自作を発表。昭和19年日本音楽文化協会会長に就任。23年脳溢血で左半身不随となるが再起。38年頃まで作曲活動を続け、教科書の編纂などにもたずさわった。この間25年日本指揮者協会設立。歌曲、オペラ、映画音楽などあらゆる音楽分野におよぶ創作活動だけでなく交響楽、オペラの普及など、日本の洋楽への貢献は大きい。生涯で声楽曲約700曲、器楽曲約160曲、舞台音楽など約40曲、団体歌約500曲と数多く作曲したが、とくに一般には歌曲「赤とんぼ」「この道」「からたちの花」などが有名。平成8年生誕110年を記念した14枚組のCD全集「山田耕筰の遺産」が発売。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報