山脇村(読み)やまわきむら

日本歴史地名大系 「山脇村」の解説

山脇村
やまわきむら

[現在地名]仲南町十郷そごう

新目しんめ村の南、阿讃山地の南麓に位置し、財田さいた川の支流多治たじ川と黒部くろべ川の合流域の平地に集落が発達している。戦国期に当地の山脇城に国侍が拠った。城主を「西讃府志」は道久左馬亮久友とし、「讃陽古城記」は山脇左馬亮久友としているが、国侍が拠点名を名乗ることが多いので、同一人物で山脇姓と推定される。山脇氏は、本目氏・新目氏とともに長尾大隅守に与力して、鵜足うた那珂なか両郡の南部を固め、三好軍や長宗我部軍の侵攻を迎え撃って奮戦し、那珂郡の北部にも進出した(南海通記)


山脇村
やまわきむら

[現在地名]佐用町山脇

佐用さよ村の南、佐用川中流左岸に位置する。同川は村の南端で大きく屈曲して、西に向きを変える。南境の下櫛田しもくしだ(現上月町)との境に高倉たかくら山があり、その北西麓に葉草はぐさ・カジヤ・下山脇の三集落がある。貞和三年(一三四七)六月二四日の刑部守延譲状(広峯神社文書)に「佐用庄内山脇」とみえ広峯ひろみね神社(現姫路市)の御師刑部守延が当地の檀那などを息女童に譲っている。慶長国絵図に山脇村とみえる。江戸期の領主変遷は当初は佐用村に同じで、寛永一七年(一六四〇)以降も山崎藩領。慶安二年(一六四九)から幕府領(「寛政重修諸家譜」など)、元禄一〇年(一六九七)三日月藩領となり幕末に至る(「森家譜」東京大学史料編纂所蔵など)


山脇村
やまわきむら

[現在地名]各務原市山脇町・下切町しもぎりちよう前渡西町まえどにしまちなど

木曾川北岸に位置する。各務かかみ郡に属し、東は下切村、南は松本まつもと村・羽栗はぐり上中屋かみなかや村、北は更木さらき八ヵ村入会地。元禄郷帳に村名がみえ、高二三三石余。元禄郡高寄帳に前渡村枝郷・新村と注される。万治三年(一六六〇)前渡村から分村し、旗本坪内の分家築地領となり、幕末に至る(各務原市史)鵜沼うぬま宿の助郷を勤める(臼井本元禄郷帳)


山脇村
やまわきむら

[現在地名]湖北町山脇

郡上ぐじよう村の西、高時たかとき川左岸に位置。「輿地志略」によれば浅井亮政が山王権現(現谷田神社)前の池から千手観音像を得、弥勒寺(真宗大谷派専光寺の前身か)の本尊としたという。天正一五年(一五八七)一一月一三日の田中吉政書状(山脇谷田神社文書)などによれば、当地には同年以前から「山王宮」が水利権をもつ「弥勒寺池」があり、この治水を利用して社人たちが新田を開発していることが知られる。


山脇村
やまわきむら

[現在地名]富津市山脇

田原たばら村の東に位置し、みなと川支流の志駒しこま川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一一〇石で、幕末までほぼ変わらない。寛文四年(一六六四)当時佐貫藩領であった(「松平忠勝領知目録」寛文朱印留)。支配領主の変遷は田原村と同様。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数一一。


山脇村
やまのわきむら

[現在地名]野洲町小篠原こしのはら

小篠原村の南、妙光寺みようこうじ山北麓に開かれた村。北西を走る中山道から脇道が当村へ引かれている。天正一九年(一五九一)四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)に山脇村とみえ六八石余。寛永石高帳には山ノ脇村とあり高七一石余、ほかに小物成二斗余(山年貢か)が記される。慶安高辻帳では、田五六石余・畑四石余・永荒一〇石余、ほかに小物成二斗余。


山脇村
やまのわきむら

[現在地名]彦根市山之脇町やまのわきちよう

おか村の南西、平田ひらた山南麓に位置。山之脇とも記す。慶長高辻帳に村名がみえ高九〇石余、うち小物成三斗余。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免で六ツ二分。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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