岡豊城跡(読み)おこうじようあと

日本歴史地名大系 「岡豊城跡」の解説

岡豊城跡
おこうじようあと

[現在地名]南国市岡豊町八幡

香長かちよう平野北部の岡豊山(九七メートル)山上にある。南麓を東から西へ国分こくぶ川が流れて天然の堀となる。長宗我部氏の居城であるが、築城の時期は明らかでなく、現在遺構にみられるように戦国時代の平山城として整えられたのは元親の父国親の頃と思われる。県指定史跡。

長宗我部氏は出自にも諸説あるが、秦を本姓とするところから、推古朝の官人秦河勝の後裔で、のちに信濃国に移り、中世初頭に長岡郡宗我部そがべ郷地頭として入国、香美郡宗我部郷(現野市町など)地頭香宗我部氏に対して長宗我部氏を称したという。「和名抄」に長岡郡宗部そがべ郷がみえ、岡豊山の東から東南一帯に比定されている。長宗我部氏の家系譜には「蠧簡集」「続群書類従」所収の長宗我部系図などがあるが、確実な傍証史料がなく、伝説的部分が多い。史料上は元弘三年(一三三三)六月四日付で長宗我部新左衛門宛に出された文書(吸江寺文書)が早く、新左衛門信能は足利尊氏から介良けら(現高知市)への狼藉停止を命ぜられている。南北朝の内乱時にも足利方につき、細川氏の傘下に入って活動、勢力を拡大した。しかし戦国時代に入り、細川氏の守護領国制は瓦解、一九代兼序は戦国群雄の中に孤立した(編年紀事略)。「蠧簡集」所収の長宗我部系図に「永正五年戊辰竟挙大兵而襲敗豊岡(ママ)城、五月廿六日兼序自尽矣」とみえるように、本山・山田・吉良・大平ら諸氏の攻撃により岡豊城は落城、兼序の子国親は幡多はたなか(現中村市)の一条氏に預けられる。なお岡豊城の落城を永正六年(一五〇九)とする説もある(土佐物語)

一条房家は国親が元服すると本山氏や山田氏らに頼んで長宗我部氏旧領の江村えむら郷・廿枝はたえだ郷などを還付させ、国親は家を再興するため岡豊へ戻った(編年紀事略)。天文五年(一五三六)七月一七日付で長宗我部国親が権助なる者に宛てた書状(古文叢)に、野田のだの合戦時の功により名字と扶持を与えるとみえるので、この頃には野田方面に進出していたことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「岡豊城跡」の解説

おこうじょうあと【岡豊城跡】


高知県南国市岡豊町にある城跡。高知県のほぼ中央、高知平野北辺の国分川に面した標高97mの岡豊山に築かれた山城で、戦国大名長宗我部(ちょうそかべ)氏の居城である。最高所に本丸にあたる「詰(つめ)」があり、東に詰下段、二の段、南から西に三の段、四の段、さらに西の丘陵に厩跡曲輪(くるわ)と伝わる曲輪が配されている。現在は石垣、曲輪、土塁、空堀、井戸などが残るだけであるが、多くの堀によって守りが固められ、瓦葺きの建物もあったと考えられている。長宗我部元親(もとちか)が土佐を平定した「天正三年」や「瓦工泉州」などと記された瓦が出土しており、元親やその父・国親(くにちか)のころには城の機能を充実させていたことがうかがえる。築城年代は13~14世紀と考えられるが定かではなく、応仁の乱以降、土佐守護の権威が失墜して土佐七守護と呼ばれる有力国人が割拠し、1508年(永正5)には長宗我部兼序(かねつぐ)が連合軍に攻められ、岡豊城は落城、その子国親は中村の一条氏のもとに預けられた。しかし、一条氏の援助で岡豊城に戻った国親は、一条氏、本山氏、安芸氏とともに土佐を四分する大名に成長し、元親の時代の1585年(天正13)には、四国を統一するまでになった。しかし同年、豊臣秀吉の侵攻に降伏し、土佐一国支配にもどされ、1588年(天正16)には大高坂(おおたかさか、おおだかさ)城(現在の高知城)に本拠を移したが、治水の悪さから再び岡豊城を本拠としたものの、新たに浦戸城を築いて移ったため、岡豊城は廃城となった。四国の戦国期の城郭を代表する遺跡として、2008年(平成20)、国の史跡に指定された。城跡は岡豊山歴史公園として整備され、出土品は高知県立歴史民俗資料館に展示されている。JR土讃線ほか後免駅から車で約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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