崎村(読み)あしざきむら

日本歴史地名大系 「崎村」の解説

崎村
あしざきむら

[現在地名]八竜町芦崎

東は八郎潟、西は日本海に面し、北は大口おおぐち村、南は秋田郡野石のいし(現南秋田郡若美町)に接する。日本海と八郎潟の間の砂丘の東側に成立した村で、八郎潟湖畔にわずかな田地を有し、潟漁業を生業とした。

寛永八年(一六三一)の差紙(門間家文書)に「小鹿之内野石大口之間 芦崎大屋地おいどまりより野代道切ニ新開ニ候由」とあり、同一二年の下代取替候事(門間家文書)には「武藤権太夫殿知行所小鹿之内足崎村谷地相開遠藤正九郎亥年より普請仕大方堤ふしん出来、当春中方々より右開所へ新百姓移り申」とあって寛永中期に開発が進んだことを示す。開発は武藤氏と遠藤氏の相開であった。またこの時に古百姓と新百姓との種貸合力についての定書(「たねかし合力の事」門間家文書)が出されている。

<資料は省略されています>

明和七年(一七七〇)の山本郡芦崎村肝煎名字帯刀御免覚帳(門間家文書)によれば、慶安元年(一六四八)には開高五石八斗四升一合、免四ツ五分、当高二石六斗二升八合、家数三軒の小郷で浜田大口村支配郷となっていたが、さらに蔵入代官所として享保一五年(一七三〇)の村名唱文字替覚(門間家文書)に「当高百九拾六石三升八合浜田村 同高弐拾弐石六斗弐升弐合大口村 同高八拾九石五斗六升九合芦崎村 右三ケ村唯今迄浜田大口村 此度御墨印三ケ村へ可被下候」とあり、同年に独立した。


崎村
みさざきむら

[現在地名]遠野市綾織町あやおりちようみさざき

石上いしがみ(一〇三八・一メートル)の南麓、さるいし川北岸に位置し、東は新里につさと村、南は釜石かまいし村。同川の支流砂子沢いさごさわ川が南流し、村の南端近くを遠野街道が通る。文治五年(一一八九)源頼朝が藤原氏を滅ぼしたのち阿曾沼広綱に遠野一二郷を与えたが(阿曾沼興廃記)、このうち下六郷に崎も含まれると伝える。当地は阿曾沼氏の家臣崎右京の本拠地といわれ、早池峰はやちね山支脈の一つである鶴音かくおん山の南走支峰の一角に右京の居館崎館跡がある。西門にしもん館ともよばれ、猿ヶ石川流域を一望できる要害の地であった。館下南面に菖蒲町しようぶまちの地名が残るが、阿曾沼氏時代の宿駅の名残とも考えられる(「綾織村郷土誌」など)


崎村
あしざきむら

[現在地名]黒部市生地芦崎いくじあしざき、下新川郡入善にゆうぜん芦崎あしさき

富山湾では最も突出した生地鼻いくじはな灯台のある付近で、東は吉田よしだ村、北は荒俣あらまた村。黒部川右岸の河口にも芦崎村(現入善町)がある。地名の由来は、アシが繁茂して海に突き出た所にあるので名付けたという(下新川郡史稿)。「三州測量図籍」では、生地村の高札場から入膳にゆうぜん(現入善町)へ向かって七町余り行くと芦崎村(生地芦崎)に着く。さらに海岸に沿って一一町余り行くと黒部川の船渡場に着く。川を越えて海辺を一六町余り行くと芦崎村の垣内のやりとぎ(鑓利)がある。ここで黒部川の東の流れを船で越えて九町余り行くと芦崎村の垣内の新浜しんばま(入善芦崎)に着くと記される。


崎村
さきむら

[現在地名]紀勢町崎

南はにしき浦、西は大内山おおうちやま村。重畳する山間を東流する大内山川沿いに集落を形成し、下流は柏野かしわの村。大内山村へは坂津さかつを山越えする道と川を迂回してこま村に入る二筋があり、いずれを熊野街道とするかは決めがたい。

文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に佐木さき村、明暦丙申郡部目録(柏崎村誌)に崎村とみえる。元禄一三年(一七〇〇)の伊勢国郡村庄録によれば、枝郷の下崎しもさき村・長野ながの(古くは長野木屋)沖田おきた村、新田には笠木小屋かさぎこや錦小屋にしきこや横谷よこたに・三ヶ古和河内こわぐち(こわごうちともいう)があった(同書)


崎村
ならざきむら

[現在地名]菊川町大字楢崎

南に六万坊ろくまんぼう山がそびえ、田部たべ川が西から東へ流れ、平野が開ける。また村内で貴飯きば川・岩田武いわたぶ川が田部川に合流する。東は上岡枝かみおかえだ吉賀よしかの両村、南は植田うえだ内日下うついしも(現下関市)の両村、西は久野くの村、北は貴飯村に接する。清末藩領。

村名は慶長五年(一六〇〇)の検地帳にみえる。村名の由来は「地下上申」に「往古当村は山村之時分、楢の木多く有之たる故楢崎村と申ならわしたる由」とある。


崎村
さきむら

[現在地名]海士町崎

布施ふせ村の南に位置し、なかノ島の最南端を占める。天正一一年(一五八三)頃と推定される一二月八日の島前公事物日記(村上家文書)に崎村とあり、鰒一〇連の負担となっている。正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田三二石余・二町一反余、畑二九三石余・一四八町九反余、ほかに新田畑五石余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)三一匁・漁請役七〇匁・大鯛八枚役一匁六分・鰤九本役一〇匁八分・鯣八〇連役二〇匁・海苔五升役五分・和布三束役三分・柄油五升役一匁・核苧九三〇目役二匁四分余・牛皮六枚役丁銀一二匁、串鮑一連役は米二斗二升余で代納。


崎村
さきむら

[現在地名]千代田町大字崎村

城原じようばる川の東方で筑後川の北方に位置し、東は浮島うきしま(現福岡県三潴みづま城島じようじま町)に接する。

大治元年(一一二六)三月の櫛田社大宮司職補任状(櫛田神社文書)に、

<資料は省略されています>

とある。元寇で功のあった大村太郎家直は鎌倉幕府より正安元年(一二九九)崎村を加封されている(歴代鎮西要略)。鎌倉末期には「崎村郷」の名も現れ、文保二年(一三一八)詫摩道秀が神埼庄内の田地を次男の親幸に譲り(詫摩文書)、建武四年(一三三七)九州探題一色道猷が、詫摩幸秀の同庄崎村郷内の田地の知行実否につき少弐頼尚をして起請文を出させている(同文書)

藩政時代には生蝋・菜種・菜種油の産額が多かった。


崎村
あしさきむら

[現在地名]銚子市芦崎町

余山よやま村の北西方、利根川右岸に位置し、銚子道が通る。余山村境を高田たかだ川が流れる。芦崎河岸が置かれていた。元和三年(一六一七)の柑子木数帳(谷本家文書)に足崎とあり、安養院が柑子木一本を植えていた。正保二年(一六四五)海上領の足崎・高田・野尻のじり三村が水論となり、検分のうえ番水とするよう命じられた(滑川家文書)。延宝六年(一六七八)当時は旗本坂部領(宮内家文書)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高四三二石余で、幕府領と旗本板倉・堀の相給。享保三年(一七一八)の川船改では小漁猟や藻草刈(田肥用)に使うとんふり舟も吟味の対象とされ、江戸で極印を受けるよう命じられたが、船持は出願により翌四年極印打を免除されている(滑川家文書)


崎村
ほうきむら

[現在地名]勝山市遅羽おそわ

禅師王子ぜぜおうじ山の北裾に位置し、九頭竜くずりゆう川に東面する。西北は大袋おおぶくろ村、南は下荒井しもあらい村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に、「ほうき下荒井共」として高三一九・二三石が記される。正保郷帳は「崎寄(ママ)村」と記し、田方一五七石余・畠方九六石余。天保郷帳は「峙奇村」と記す。


崎村
ならさきむら

[現在地名]多賀町楢崎

犬上川が鈴鹿の山並みから平地へ出る喉元にあたり、東対岸に富之尾とみのお村がある。犬上川の水利権を牛耳る地点にあるため、古来より楢崎氏および京極氏のかかわるところとなる。天正一九年(一五九一)四月二七日の御蔵入目録(林文書)に「かわらの内ならさき村」とみえ、高一一七石余、さらに小物成として山手米三石がかかる。慶長高辻帳に高一四六石余、うち小物成六石とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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