帰天斎正一(読み)きてんさいしょういち

改訂新版 世界大百科事典 「帰天斎正一」の意味・わかりやすい解説

帰天斎正一 (きてんさいしょういち)

西洋手品開祖生没年不詳。明治初年,日本手品でヨーロッパを巡演したとき,西洋手品を習得して帰国した。そして1878年以降は,〈手品の親玉〉とたたえられる。とりわけ口から火炎を吐く技術は抜群で,民衆に西洋手品の〈科学性〉を認識させた。89年には宮中御学問所天覧を仰いだが,松旭斎天一(しようきよくさいてんいち)(1853-1912。松旭斎天勝(てんかつ)の師匠)の大型化をねらった奇術に太刀打ちできず,いつのまにか姿を消した。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「帰天斎正一」の解説

帰天斎 正一(3代目)
キテンサイ ショウイチ


職業
奇術師

本名
山中 一三

旧名・旧姓
福岡

生年月日
明治15年

出生地
大阪

経歴
2代目帰天斎正一の三男。父から奇術の手ほどきを受けたのち、東京で修業する。日本古典奇術の正統派として活躍。十八番の一つ「浮かれの蝶」は、小さな紙片を扇であおいで蝶のように見せる胡蝶の舞で至芸と称された。

没年月日
昭和48年 8月16日 (1973年)


帰天斎 正一(2代目)
キテンサイ ショウイチ


職業
奇術師

本名
福岡 正一

別名
前名=東京斎 魚一

経歴
幕末には大坂両替商を営む。明治初期になって大阪・道修町で芸人斡旋会社・芸能社を起こした。独学で奇術を始め、上京して初代帰天斎正一に師事、東京斎魚一と名乗った。明治30年頃に2代目帰天斎正一を襲名。初代同様に西洋奇術で人気を得た。

没年月日
明治43年 (1910年)

家族
三男=帰天斎 正一(3代目)


帰天斎 正一(初代)
キテンサイ ショウイチ


職業
奇術師

本名
済清 菊太郎

生年月日
天保14年 9月

経歴
はじめ林屋正蔵(3代目)門下で、林屋正楽と称した落語家。明治1年渡欧。7年帰国し、西洋手品を紹介した。20年頃から寄席に出演し、「洋術首切」などの新手品を披露した。当時の奇術界の第一人者の一人。

没年月日
?

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

朝日日本歴史人物事典 「帰天斎正一」の解説

帰天斎正一

没年:没年不詳(没年不詳)
生年:天保14.9(1843)
明治期の奇術師。本名波済粂太郎。初め3代目林家正蔵門の噺家で林家正楽。のち奇術師として独立,帰天斎正一を名乗った。本人の口上では明治初年パリへ渡り西洋奇術を習得して明治7(1874)年に帰国したという。9年ごろから寄席へ出て,当時としては珍しいハンカチ焼き捨て,洋術首切りなどの西洋奇術で人気をとり,22年には宮中御学問所において天覧の栄を賜った。晩年が不明だが,明治30年代には大阪の2代目に名前を譲って引退したものと思われ,大正6,7(1917,18)年ごろは長野善光寺のほとりで易占をしていたともいう。<参考文献>山本慶一「西洋手品の開祖・帰天斎正一」(『奇術研究』51号)

(山本進)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「帰天斎正一」の解説

帰天斎正一 きてんさい-しょういち

1843-? 明治時代の奇術師。
天保(てんぽう)14年9月生まれ。はじめは3代林家正蔵門下の落語家林家正楽。明治初年パリにわたり,西洋手品を習得したという。明治9年ごろから寄席に出演し,洋術首切りや口から火をはく技などを披露。30年代に弟子に2代目をゆずり,以後の消息は不明。本名は波済粂太郎(なみずみ-くめたろう)。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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