道修町(読み)ドショウマチ

デジタル大辞泉 「道修町」の意味・読み・例文・類語

どしょう‐まち【道修町】

大阪市中央区の地名。江戸時代からの薬種問屋街で、今も製薬会社が並ぶ。

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精選版 日本国語大辞典 「道修町」の意味・読み・例文・類語

どしょう‐まち【道修町】

  1. 大阪市中央区、船場の町名。豊臣秀吉が薬種業者を集め、享保七年(一七二二徳川吉宗がそれを公許して和薬改会所を設置して以来、全国の薬種市場の中心として栄えた。いまも薬種問屋の町として知られる。

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日本歴史地名大系 「道修町」の解説

道修町
どしようまち

伏見町ふしみまち通の南に東西に延びる道修町通の両側町で、東の東横堀ひがしよこぼり川側から一―五丁目がある。「毛利天正記」天正一六年(一五八八)七月二〇日条に毛利輝元の大坂滞在中のこととして「道修町」(異本では道匠町)みえる。「家廿計り焼失候」とあって、位置は不明ながら町は成立していたと思われる。なお、文禄四年(一五九五)本願寺教如が大谷本願寺を建立した西成にしなり渡辺わたなべを当地とする説もある(→難波別院。「毛吹草」には「道修谷だうしゆだに」とみえ、当地の古名は道修谷どうしゆだにで、上町うえまち台地に切れ込む谷の名称であったと思われる。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図には道修町一―五丁目が記される。当初は「どうしゅまち」と読んだと思われるが、のちなまって「どしょうまち」と読みならわされるようになった。町名の由来は、道修寺という寺があったとか、北山道修という医師がいて門前に薬屋が集まって町ができたなどともいわれるが、不明。

道修町は薬屋の町として著名であるが、「難波鶴」には薬のほか、俎板・走(台所の流し台)梯子炬燵櫓など、また「懐中難波すゞめ」には畳屋・箪笥屋などが記されており、台所用品や指物細工など日常生活用品をつくる職人が多くいたことがわかる。

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改訂新版 世界大百科事典 「道修町」の意味・わかりやすい解説

道修町 (どしょうまち)

江戸時代から現代に続く大阪市内の町名。1~5丁目に分かれ,江戸時代には大坂三郷の北組,現在は大阪市中央区に属している。いわゆる船場せんば)の典型的な商人町で,薬種問屋の集居する町として有名。江戸初期は道修谷(どうしゆだに)と呼ばれ,上町台地に切れ込む谷地の名称が町名になったとされる。のち道修町となり,読み方も〈どしょうまち〉が一般化した。地名の起源についてはまた,かつて道修寺という寺院があった,北山道修という医師が開業し門前に薬屋が集まった,あるいは修学修道の地であった,などの諸説がある。1700年(元禄13)には1~5丁目合わせて家数150軒,役数193.5役であったが,そのほか多数の借屋があり,1659年(万治2)の段階では3丁目だけでも家持26軒,借屋199軒があった。当時は,薬種屋のほかにも台所用品や指物細工,畳屋などの職人が多数居住していたが,江戸時代中ごろには薬種屋が中心的な勢力となった。

 寛永年間(1624-44)堺の薬種屋小西吉右衛門が将軍の命で当地に開業したという伝承があり,1658年(明暦4)には当町の薬種屋33軒が奉行所に連印状を提出している。その後1722年(享保7)に道修町薬種中買仲間124軒が成立し,貿易品として幕府のきびしい統制下にあった唐薬種の全国的な流通構造の中枢を掌握した。それは長崎貿易で輸入される唐薬種はすべていったんは大坂の唐薬問屋に荷受けされ,道修町薬種中買仲間が品質と容量を検査したのち優先的に買い付け,全国各地の薬種問屋や大坂市中の他の薬種屋,合薬屋に売りさばくというもので,中買といっても実質的には独占的な仕入問屋であった。また国産の和薬種についても一手に取り扱い,彼らから薬種を仕入れて売薬をつくる合薬屋や小売の薬種屋も多数居住して,薬屋の町として発展した。現在もその伝統を受け継ぎ,中買仲間の系譜をひく武田薬品工業田辺製薬といった大手製薬会社の本社をはじめ,多数の薬品会社が当町に集中している。また1780年(安永9)中買仲間が京都五条天神社から勧請した少彦名(すくなひこな)神社は薬祖神として中国の神農氏を合祀し,〈神農さん〉と呼び親しまれ,現在11月22日,23日の祭礼には人出でにぎわい,病除けのお守りとして笹につけた張子の虎を授与することで有名である。
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百科事典マイペディア 「道修町」の意味・わかりやすい解説

道修町【どしょうまち】

大阪市中央区船場(せんば)にある薬種問屋街。豊臣秀吉の城下町経営の際,薬種商を集めたのに始まり,享保ごろ発展。大小の製薬会社が集中する。
→関連項目大阪[市]中央[区]

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「道修町」の意味・わかりやすい解説

道修町
どしょうまち

大阪市中央区船場(せんば)にある薬種問屋街。町名は道修谷とよばれた地名に由来する。寛永(かんえい)年間(1624~1644)に小西吉右衛門が幕命でこの地に薬種業を開業したのに始まり、1658年(万治1)には株仲間の問屋街を形成し、1666年(寛文6)には108軒に及んだという。現在、老舗(しにせ)の武田、田辺三菱、塩野義(しおのぎ)など大手製薬会社が軒を並べている。薬種神を祀(まつ)る少彦名命神社(すくなひこなのみことじんじゃ)は通称「神農さん(しんのうさん)」といい、町の氏神として、11月22~23日の祭礼には参詣(さんけい)人でにぎわう。

[位野木壽一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「道修町」の意味・わかりやすい解説

道修町
どしょうまち

大阪市中央区北西,船場北部を東西に貫く街区。薬品会社,問屋が集中する。古くは豊臣秀吉の城下町治世に際し,商業政策として薬種業者が集められたと伝えられる。享保7 (1722) 年徳川吉宗のとき 124軒の薬屋の営業を公認,和薬種改会所を設置して問屋街発展の基礎を固めた。現在も薬品取引額は全国の約半分を占め,取引先は全国に及ぶ。2丁目にある少彦名 (すくなひこな) 神社は,通称「神農さん」と呼ばれ,医薬の神として崇敬が厚い。

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世界大百科事典(旧版)内の道修町の言及

【軽演劇】より

…37年に日中戦争が起きて以来,戦時色は日ごとに強まり,やがて41年には太平洋戦争に突入する。そんな中で,ロッパは,37年に渡辺篤,若手として森繁久弥(1913‐ ),山茶花究(さざんかきゆう)を入れ,座付作者の菊田一夫と組んで,《道修町(どしようまち)》《花咲く港》といった〈当時の風潮に従うようにみえて,実は一種の抵抗である芝居をやってのけた〉(小林信彦による)。一方,エノケンは,十八番の《法界坊》《らくだの馬さん》などで人気を博したが,彼の片腕ともいうべき座付作者,菊谷栄の戦死によって,しだいにバイタリティを失っていった。…

【少彦名命】より

…なおオオナムチ,スクナビコナは医療,禁厭(まじない)の法を定めたとされる(《日本書紀》神代巻)だけに,温泉の開発神とする伝えが各地に多くみられ(伊予国,伊豆国の《風土記》逸文など),延喜典薬式に用いられている薬草石斛(せつこく)はスクナヒコノクスネ(少名彦の薬根)と呼ばれた(《和名抄》《本草和名》)。近世以降,大阪の薬問屋街,道修町(どしようまち)では薬種の守護神として少彦名神社をまつり,毎年11月には全店休業しての大祭が今日でも行われている。また薬師信仰の普及のなかで,スクナビコナは薬師如来と習合されてゆくが,857年(天安1)2神をまつる常陸国大洗磯前(いそざき)神社,酒列(さかつら)磯前神社(ともに式内社)が,官命により〈薬師菩薩名神〉と加号された(《文徳実録》)のはその早いあらわれといえる。…

【のれん分け(暖簾分け)】より

…近世の豪商経営をみていくと,この暖簾分け制度が大きな意味をもっているのに気づく。 大坂道修町(どしようまち)の武田(近江屋)長兵衛家(武田薬品工業の前身)の場合,1779年(安永8)に主家である近江屋喜助から屋号,暖簾を使うことを許され,銀2貫目の元銀と秋田方面の販売圏を譲られ,道修町の薬種仲買として独立することができたのである。主家の近江屋喜助も,近江屋一族の宗家太右衛門の別家格であるし,武田も経営が安定してくると次々と暖簾を分けて別家を増やしていった。…

※「道修町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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