12世紀後半,後白河上皇のもとで活躍し,《年中行事絵巻》や《伴大納言絵詞》の筆者に擬せられる宮廷絵師。生没年をはじめ経歴の詳細は不明であるが,後世土佐派の系図において,基光,隆能などに続く祖先の一人に列せられて土佐光長などと呼ばれ,当時の能画の第一人者と目された。この光長は,後白河上皇の寵妃建春門院が建立した最勝光院の御堂や御所の障子絵制作を命ぜられた常盤源二光長と同一人物と考えられる。彼は法華経二十八品の絵を描いたほかに,上皇と女院の平野行啓,高野御幸,日吉御幸の情景を描いたが,供奉の人々の面貌だけは藤原隆信が仕上げたとの記録がある。また1157年(保元2)ころから79年(治承3)ころにかけて大規模な《年中行事絵巻》が後白河上皇の命によって制作され,後世の文献ではあるが,その主要作者の一人として光長の名があげられている。《年中行事絵巻》(原本は失われ模本がのこる)に展開する華やかな儀式や行列の光景,群衆の喧噪のありさまは,最勝光院障子絵の行幸の場面もかくやと思わせ,さらには《伴大納言絵詞》のすぐれた構成力や躍動する群衆描写,柔軟な筆致とリズミカルな色彩感覚などと共通するところが多く,両絵巻の作者が常盤光長である可能性は十分に考えられる。
執筆者:田口 栄一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
生没年未詳。平安末期(12世紀後半)の画家。当代の大和絵(やまとえ)の名手で、宮廷絵師として後白河院(ごしらかわいん)やその妃建春門院の周辺で活躍した。1173年(承安3)には妃の発願により建立された最勝光院の障子絵制作に携わり、上皇や妃の平野行啓・日吉(ひえ)御幸・高野(こうや)行幸の情景を描いているが、参列者の面貌(めんぼう)は藤原隆信(たかのぶ)が仕上げたとの記録がある(『吉記(きっき)』『玉葉(ぎょくよう)』)。また現在模本のみ伝わる『年中行事絵巻』は、上皇の命により光長を中心に制作されたが、原本は60巻にも及ぶ大作であった。現存する『伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)』(国宝、東京・出光(いでみつ)美術館)も光長の作と推定されているが、その画風は高度な大和絵の伝統を継承して格調高い。なお、常盤以外の土佐・藤原などの呼称は後世付加されたもので、確証はない。
[加藤悦子]
… このような傾向に変化が兆したのは平安時代末期で,建春門院の発願により1173年(承安3)に成った最勝光院御堂の御所障子絵はその変化を示唆する事例で,九条兼実の日記《玉葉》の記すところによれば,そこには1172年の日吉御幸などの絵が描かれたが,画面には実際に供奉した貴族たちの似顔が表されていた。障子絵を担当したのは絵師常盤光長であったが,面貌だけはそれを得意とした藤原隆信が手がけたのである。この作例は同時に次代への道を開く似絵の先駆的作品として位置づけることができる。…
…866年(貞観8)応天門に放火して,その罪を政敵である左大臣,源信(みなもとのまこと)に負わせようとした大納言伴善男(とものよしお)(809‐868)の陰謀が偶然のことから露顕し,逆に伴大納言が失脚するという史実(応天門の変)を,ドラマティックに脚色して描いた説話絵巻の代表作。12世紀後半,後白河院周辺で活躍した宮廷絵師常盤光長の作と推定される。現在,上中下3巻に分かれているが,当初は1巻の長大な絵巻で,中世には若狭国松永荘(福井県小浜市とその周辺)の新八幡宮にあったといわれるが,現在のどの八幡社にあたるかは不明である。…
※「常盤光長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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