常陸国府跡(読み)ひたちこくふあと

日本歴史地名大系 「常陸国府跡」の解説

常陸国府跡
ひたちこくふあと

常陸国府は「和名抄」に「常陸国国府在茨城郡、行程上三十日、下十五日」とあり、現石岡市に置かれた。創設の時期は不明であるが、国府の規模からみて、初代国司百済王遠宝の頃から計画され、九代百済敬福、一〇代佐伯今毛人の頃までに条坊制をもつ国府が完成したとみられている(石岡市史)

「石岡市史」によれば、国府は国衙を西端に配し、条坊制をしき、条坊の北に国分僧寺、国衙の南に総社が設けられていた。国衙の地は方二町で、周囲を土塁と堀で囲まれ、東西南北に門があった。条坊の四至は、北は国分僧寺の境域、南はビンズル谷津、東は山王さんのう川の低地、西は恋瀬こいせ川の低地で限られ、周囲には土塁がめぐらされ、門が東西南北に設けられており、井戸も各道路に面してあったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「常陸国府跡」の解説

ひたちこくふあと【常陸国府跡】


茨城県石岡市総社にある古代官衙(かんが)跡。霞ヶ浦に注ぐ山王川と恋瀬川によって形成された石岡台地上に立地する。1970年(昭和45)の発掘調査の結果、大型の南北棟建物などが検出され、瓦類も出土したことから、国府跡と裏づけられた。1998(平成10)~1999年(平成11)の発掘調査や2001年(平成13)~2007年(平成19)の遺跡範囲・内容を確認する発掘調査の結果、国府跡の様相が明らかとなった。2010年(平成22)に国の史跡に指定された。遺構は7世紀末から11世紀にかけての変遷が認められ、7世紀末には、桁行6間の身舎(もや)の東に庇をもつ南北棟を正殿とし、東西棟の脇殿、南北棟の前殿が整然と並んでいた。8世紀前半には、建物配置が大きく変わり、塀で囲まれた1辺約100mの区画のなかに東西棟の正殿、南北棟の脇殿などが「コ」の字形に配置されるようになる。この区画と配置は、ほぼ9世紀後半まで続いたが、8世紀前半の正殿は、桁行6間、梁行3間の身舎の南に庇をもつ建物である。国庁に比定される1辺100mの区画において、正殿の中軸線は、8世紀前半から約300年にわたり踏襲され、高い計画性が認められる。脇殿は正殿の中軸線から東西対称に約42m離れた位置で、主軸を揃えた南北棟が2棟まっすぐ並ぶ。8世紀中ごろから9世紀後半には、主要な建物配置や中軸線を継承しつつ、正殿が桁行7間に拡張され、楼閣建物や前殿などの建物が並んでいた。この時期には一部の建物が礎石建ちとなるほか、この区画の西側に接し、東西棟の掘立柱建物が3棟建てられた。うち、北側の建物は、桁行11間、梁行2間の身舎に南北庇をもつ大規模なものである。10世紀以降は、塀で囲まれた区画はなくなるが、従来の正殿の中軸線を踏襲した位置に、東西棟の掘立柱建物1棟が配置され、1回の建て替えが認められる。このほか区画の約55m北側には幅約4mの8世紀代の東西溝があり、これらの施設群全体の北辺を区画する施設と考えられる。出土遺物としては、国分寺、国分尼寺出土と同じ型で造られた同笵(どうはん)の軒瓦(のきがわら)、磚(せん)、「国」の墨書をもつ土器や円面硯(えんめんけん)などがある。JR常磐線石岡駅から徒歩約13分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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