平木村(読み)ひらきむら

日本歴史地名大系 「平木村」の解説

平木村
ひらきむら

[現在地名]春野町宮川みやがわ

里原さとばら村の東、南西流する気田けた川左岸にある。同川に東から注ぎ込む支流すぎ川の合流地点から少し下った所で、対岸は気田村。江戸初期から幕府領。慶長四年(一五九九)の検地では北東の篠原しのはら村と合せて検地帳(春野町役場蔵)が作成された。正保郷帳では永五貫一〇〇文、うち新福寺領五〇文・阿弥陀領五〇文。柴草山と注記される。寛文一三年(一六七三)の検地帳(春野町役場蔵)によれば田二町九反余・畑四町五反余・屋敷一反余。名請人三八名。元禄郷帳では高五四石余。小物成は売物二割出・駒役・黐役・鉄砲役・山手役等があった(年未詳「犬居領四一ヵ村小物成等書上」白川家文書)。当村在住の土豪和田氏は江戸初期から在地手代(大庄屋)として直接支配に当たり、正徳三年(一七一三)まで当村のほか里原・久保田くぼた高瀬たかせ夜川十五七百よかわじゆうごしちひやく河内こうち上平山かみひらやま(現佐久間町)、下平山・戸倉とくら(現龍山村)東雲名ひがしうんな谷山ややま佐久さく相津そうづ(以上現天竜市)の各村の年貢納入を一括担当した(春野町史)


平木村
ひらぎむら

[現在地名]大山町平木

神原かんばら村の北西阿弥陀あみだ川西岸にあり、北西から南東へ大山道(坊領道)が通る。村名は「開き」から転訛したとする説がある(大山町誌)。拝領高三三八石余、本免は三ツ三分。羽田氏・佐治氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」の高三九〇石、竈数二〇。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四〇四石余、竈数三四。


平木村
ひらぎむら

[現在地名]八日市場市平木・みどりだいら

東谷ひがしや村の南に位置する。元和三年(一六一七)の柑子木数帳(谷本家文書)に平木とみえ、「みすぬまかすへ」が三本を負担していた。寛永二年(一六二五)村内二六〇石余が旗本菅沼領であった(知行宛行状)。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では旗本井上領四一三石・幕府領九七石で、平木組に属した。


平木村
ひらきむら

[現在地名]社町平木

丹波と播磨の国境の丘陵地に位置し、東は丹波国多紀たき木津こつ(現篠山市)、西は下鴨川しもかもがわ村。古刹清水きよみず寺があり、中世末頃に同寺の寺内院坊の僧たちが下山・還俗して開いた地と伝える。江戸時代の清水寺の朱印地六五石の地をさし、東坂本ひがしさかもと(東阪元)とも称されたという。慶長国絵図に「清水」とみえ、正保郷帳に記載はないが、元禄郷帳・天保郷帳ともに清水寺は高六五石とある。


平木村
ひらぎむら

[現在地名]三木町平木

池戸いけのべ村の東、南は仏生山ぶつしようざん街道を境に氷上ひかみ村。同道は古代の官道南海道に比定される。東部をしん川が北流する。南北朝時代に日蓮宗妙徳みようとく寺が創建されたという。高岡たかおか城・平木城に三木氏が拠り、当地が三木郡支配の根拠地となったという。高松城下町の形成に伴って平木は旧南海道の道筋から高松城下へ向かう道路の分岐点となり、宿場や荷物の積下ろしでしだいに賑うようになった。寛永国絵図では井上いのえ郷に属する。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では高五七八石余。同一九年の高松領小物成帳に綿四五八匁一分とある。天保―安政期(一八三〇―六〇)の庄屋は入倉清平が勤めていた(高仙神社棟札など)


平木村
ひらぎむら

[現在地名]美里村平木

きようヶ峰(八一九・三メートル)西麓の山地にあり、北長野きたながの村の北にあたる。集落は経ヶ峰の南面の斜面にある。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「平木村」と現れる。江戸時代を通じて津藩領。「五鈴遺響」は「街道ニ出屋敷アリ属邑ナリ」とある。寛延(一七四八―五一)頃の戸数七七、ほかに郷士二、人口二一五、馬一二、牛二四、神祠に三舟みふね・八幡、寺院に安養あんよう寺とあり(宗国史)、明治五年(一八七二)の村明細帳(徳川林政史蔵)には、戸数四〇、人数二〇二(男一一二・女九〇)、酒造稼一、馬一、牛一九、神祠に三舟神社・八幡宮(相殿)愛宕あたご社・神明宮・須賀すが(相殿)、愛宕社、山神二一とある。


平木村
ひらぎむら

[現在地名]御調町平木

仁野にの村の西南に位置し、東南は山地で福山藩領芦田あしだ柞磨たるま(現福山市)に接する。南北の山地の間に広がる標高一五〇―二〇〇メートルの緩傾斜面にある山村。南の山地は高く、水利は不便。元和五年(一六一九)の備後国知行帳では高一四四八・九六二石のうしかわ村に含まれており、「国郡志下調書出帳」によると、寛永一五年(一六三八)の地詰帳に、すげ菅山方すげやまかた・平木・江田えたの四ヵ村を一村とし、菅組すげぐみ村と称しているという。


平木村
ひらきむら

[現在地名]宇土市走潟はしりがた

東は飽田あきた北走潟きたはしりがた村、西は同郡方丈ほうじよう(現飽託郡天明町)に接し、村の東に緑川(現浜戸川)、北にしん(現緑川)が流れる。近世飽田郡で銭塘手永に属した。慶長九年(一六〇四)開村検地帳には一六町八反三畝余、分米二〇四石一斗余で、慶長一二年平木村検地帳では畝数二六町二反一畝余、分米三二六石二斗余、家数二三、男三〇・女二二、蜜柑二本、牛七とある。


平木村
ひらぎむら

[現在地名]松任市平木町・蕪城ぶじよう二―五丁目

なり村北部の西に位置。天文一五年(一五四六)九月一七日、宮保聖興みやぼしようこう寺の代理として「平木道西」が摂津石山本願寺に三十日番衆として上っている(天文日記)。弘治三年(一五五七)の梶井門跡知行目録(三千院文書)に「加州平木庄」がみえるが、詳細は不明。正保郷帳によると高九一七石余、田方五六町八反余・畑方四町三反。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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