日本歴史地名大系 「平野庄」の解説
平野庄
ひらののしよう
現神戸町一帯および
平野庄
ひらののしよう
明石川中流域に展開する庄園で、庄内を南北に三木に向かう道が通り明石・三木の中間に位置する。暦仁元年(一二三八)一二月一四日、太政大臣九条良平は平野庄を成恩院(九条坊門)に寄進している(門葉記)。正和五年(一三一六)当庄領家内大臣洞院実泰の訴えにより、守護代糟屋弥次郎に長浜六郎入道とともに国中の地頭御家人を相催し、当庄に乱入する悪党を鎮め身柄を拘束することなどが命じられた(同年七月一三日「六波羅探題御教書案」東大寺文書)。この悪党とは円了法師祐真(奈良東大寺領大部庄鹿野村地頭代白井八郎定胤の家人であり、海賊張本の田那部入道行蓮の縁者)・長尾備前房(大部庄坂部村所務代官)・太郎左衛門入道円心(明石郡下端庄住人)らであった(元亨二年九月日「大部庄悪党交名注文案」同文書)。
平野庄
ひらののしよう
平野庄
ひらののしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報