中河御厨(読み)なかがわのみくりや

日本歴史地名大系 「中河御厨」の解説

中河御厨
なかがわのみくりや

安八郡にあった伊勢神宮領の御厨。北は平野ひらの(現安八郡神戸町)、南は大井おおい庄、東は津布良開発つぶらかいほつ御厨に接する。現在の中川なかがわ町一帯に比定される。保安三年(一一二二)当御厨を延暦寺領平野庄の加納とするよう、延暦寺中門堂衆が朝廷に訴えている(天台座主記)。保元年間(一一五六―五九)には院宣によって美濃国内の五〇戸の神戸の代りとして当御厨を済所とすることとし、代米三六六石余を神宮に納めることになったという(神宮雑例集)。鎌倉時代初めには、田数三五六町、内宮に米五〇石・長絹二〇疋、外宮に米二五石・長絹一〇疋を負担したらしい(神鳳鈔)。鎌倉時代のある時期から北条氏得宗が地頭職を所持したが、元弘三年(一三三三)八月四日には当御厨は小笠原貞宗に恩補され(「後醍醐天皇綸旨」小笠原文書)、その後、貞宗―政長―清政―政康と相伝された(観応二年一月二六日「小笠原政長譲状」同文書など)

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百科事典マイペディア 「中河御厨」の意味・わかりやすい解説

中河御厨【なかがわのみくりや】

美濃国安八(あんぱち)郡に設定された伊勢神宮領の御厨(みくりや)。現岐阜県大垣市中川町を遺称地とする。《天台座主記》によると,1122年当御厨を延暦(えんりゃく)寺領平野(ひらの)荘(現岐阜県神戸町)の加納とするよう,延暦寺中門堂衆が朝廷に訴えている。保元年間(1156−1159)当御厨は院宣(いんぜん)によって美濃国内50戸の神戸(かんべ)の代わりとして済所とされ,代米366石余を神宮に納めることになったという。鎌倉時代初めには田数356町,神税は内宮に米50石・長絹20疋,外宮に米25石・長絹10疋であった(《神鳳鈔》)。地頭職は北条氏得宗(とくそう)が所持したが,鎌倉幕府滅亡後は小笠原(おがさわら)氏が領有した。室町時代には幕府の御料所(ごりょうしょ)となったとみられる。戦国時代になると御厨としての実体はしだいに失われ,史料にも中河荘あるいは中川の名でみえるのが一般的となる。

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改訂新版 世界大百科事典 「中河御厨」の意味・わかりやすい解説

中河御厨 (なかがわのみくりや)

美濃国安八郡に設定された伊勢神宮(内・外宮)領の御厨(現,岐阜県大垣市中川)で,成立は嘉承(1106-08)以前。《神宮雑例集》に〈美濃国五十戸,保元院宣中河御厨をもって,済所となす〉とあり,美濃国の神宮領封戸(ふこ)が保元(1156-59)の院宣によって便補(びんぽ)され,中河御厨が済所となったことがわかる。建久3年(1192)8月の伊勢大神宮神領注文(《神宮雑書》)に〈中河御厨(二宮上分絹廿疋) 給主左兵衛督家(一条能保)〉と見え,源頼朝の妹婿一条能保がかかわっていたことがわかる。このころ田数356町,神税は内宮50石,長絹20疋,外宮25石,長絹10疋であった。鎌倉期の地頭職は得宗領となっており,幕府の滅亡後,同職はいったん小笠原氏の領有に帰したが,やがて室町幕府の御料所となったようで,幕府官僚が代官職をあてがわれている。戦国動乱の中で御厨としての実体はしだいに失われ,1587年(天正15)の神宮修理料ならびに供田注文(《慶光院文書》)では,米75石7斗,銭46貫文が書きあげられているが,実際には納入は滞りがちであったらしい。このころ神税と別に当厨からは給人池田輝政に5貫文,森忠政に7貫文があてがわれていた。
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