日本歴史地名大系 「広峰神社」の解説
広峰神社
ひろみねじんじや
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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兵庫県姫路市北部の広峰山上に鎮座する。素盞嗚(すさのお)尊,五十猛(いそたける)命を主祭神とし,もと広峰牛頭天王(ごずてんのう)社といわれた。《日本三代実録》貞観8年(866)7月条に,〈播磨国無位速素戔烏神。速風武雄神,並びに従五位下を授く〉とあるのが,広峰社の史料上の初見とされる。平安時代に御霊信仰と疫神祭が盛んになる中で,スサノオと習合した牛頭天王が広峰山にまつられたが,これが京都の八坂に移されて祇園社(八坂神社)となったといわれる。《二十二社註式》によると,祇園社の牛頭天王は初め播磨国明石浦に跡を垂れて広峰に移り,その後北白川東光寺に移り,元慶年中(877-885)に祇園感神院に移ったという。《二十二社本縁》も祇園社について,〈これ感神院と云ふ。播磨の広峰より遷座す。牛頭天王と号するなり〉と記している。また中世播磨の地誌《峯相記(みねあいき)》は,奈良時代に入唐した吉備真備が帰朝して広峰山麓に一宿したとき,真備を追って渡来した貴人が現れて当山に牛頭天王とあがめまつられ,のち平安京の東方守護のために祇園荒町に勧請されたという伝承を語り,〈恐クハ当社ヲ以テ本社ト云ベシ〉と記している。鎌倉時代の広峰社は,牛頭天王垂迹と諸願成就の霊地として国内上下の尊崇を集め,山上,坂本の神領に対して守護使入部停止の特権が認められた。同社の大別当職を世襲した広峯氏は鎌倉御家人となり,国内の有力な武士団として活躍し,1336年(延元1・建武3)足利尊氏から土山荘地頭職を広峰領として与えられている。一方,鎌倉・室町期を通じて広峰社は祇園社末社であり,祇園社の御祈料所として祇園執行らの支配をうけ,地子・公事物などを上納していた。1444年(文安1)本殿が焼亡したらしく,59年(長禄3)に再建の勧進が行われたが,それによって造営された桁行11間,入母屋造の本殿が現存し,桃山期とみられる拝殿,室町初期の石造宝篋印塔とともに国の重要文化財に指定されている。江戸時代の朱印領72石。旧県社。例祭4月18日。1月中旬には疫神祭が行われる。
執筆者:戸田 芳実
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