〈御霊〉は〈みたま〉で霊魂を畏敬した表現であるが,とくにそれが信仰の対象となったのは,個人や社会にたたり,災禍をもたらす死者(亡者)の霊魂(怨霊)の働きを鎮め慰めることによって,その威力をかりてたたり,災禍を避けようとしたのに発している。この信仰は,奈良時代の末から平安時代の初期にかけてひろまり,以後,さまざまな形をとりながら現代にいたるまで祖霊への信仰と並んで日本人の信仰体系の基本をなしてきた。
奈良時代の末から平安時代の初期にかけては,あいつぐ政変の中で非運にして生命を失う皇族・豪族が続出したが,人々は(天変地異)や疫病流行などをその怨霊によるものと考え,彼らを〈御霊神(ごりようじん)〉としてまつりだした。〈御霊会(ごりようえ)〉と呼ばれる神仏習合的な神事の発生である。御霊会の初見は清和天皇の時代,863年(貞観5)5月20日に平安京(京都)の神泉苑で執行されたもので,そのとき御霊神とされたのは崇道(すどう)天皇(早良(さわら)親王),伊予親王(桓武天皇皇子),藤原夫人(伊予親王母),橘逸勢(たちばなのはやなり),文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)らであったが,やがてこれに藤原広嗣が加えられるなどして〈六所御霊(ろくしよごりよう)〉と総称された。さらにのちには吉備大臣(吉備真備(きびのまきび)),火雷神(火雷天神)が加わって〈八所御霊〉となり,京都の上御霊・下御霊の両社に祭神としてまつられるにいたった。この両社は全国各地に散在する御霊神社の中でもとくに名高く,京都御所の産土神(うぶすながみ)として重要視された。京都の祇園祭(ぎおんまつり)もその本質はあくまでも御霊信仰にあり,本来の名称は〈祇園御霊会〉(略して祇園会)であって,八坂神社(祇園社)の社伝では869年(貞観11)に天下に悪疫が流行したので人々は祭神の牛頭天王(ごずてんのう)のたたりとみてこれを恐れ,同年6月7日,全国の国数に応じた66本の鉾を立てて神祭を修め,同月14日には神輿を神泉苑に入れて御霊会を営んだのが起りであるという。また,903年(延喜3)に九州の大宰府で死んだ菅原道真の怨霊(菅霊(かんれい))を鎮めまつる信仰も,御霊信仰や雷神信仰と結びつきながら天神信仰として独自の発達を遂げ,京都の北野社(北野天満宮)をはじめとする各地の天神社を生んだ。
鎌倉時代以降には,非運な最期を遂げた武将たちも御霊神の中に加わるようになって御霊信仰に新生面が出たが,その場合は御霊の音が似ているために〈五郎(ごろう)〉の名を冠した御霊神が多く,社名も〈五郎社〉で,鎌倉権五郎社(御霊神社)はその好例の一つである。また,御霊神の威力に対する畏怖と期待の念は時代をおって幅広いものとなり,疫神(えきじん)のみならず田の神や水の神の機能とも融合しあって農村社会に浸透し,田植えと密接な関連をもつ五月節供を御霊会,御霊の入りなどと呼ぶ地方もある。
御霊信仰の広まりと定着は,神事祭儀の場としての御霊社を中心としつつ各種の夏季の民俗行事や民俗芸能を生み,現代に伝えている。害虫駆除を祈念して,藁人形を仕立て,鉦(かね)・太鼓を打ち鳴らしながら畦(あぜ)を行列し,村境まで〈虫〉を送り出しに行く虫送り(虫追い)や雨乞いなどの呪術的行事とか,芸能性の濃い念仏踊や盆踊などとかは,その代表的なものといえる。
→生祠(せいし) →流行神(はやりがみ) →人神(ひとがみ)
執筆者:横井 清
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不幸な死に方をした人の霊が、祟(たた)り、災いをもたらすという信仰。またそれをなだめ、抑える神を祀(まつ)る信仰。霊魂信仰では、霊魂がもっとも尊く不滅の存在であるとし、その一部が人体に宿って安定している間、その人は生きていると考えた。霊肉そろった状態が生であり、死後は子孫の祀りを受けてしだいに霊肉が分離し、肉体は朽ちて霊魂は再生するという考え方である。ところが事故死、戦死、自殺など非業(ひごう)の死を遂げた人の場合、霊肉のうち肉体だけが突然損なわれるわけで、霊魂は安定する場所を失って浮遊霊となる。その浮遊霊が他人の肉体に入ろうと、ねらっているのではないかと恐れたり、稲の害虫になって凶作の原因になるとして鎮送の呪術(じゅじゅつ)行事を行ったりする。その浮遊霊のことを、平安時代には物の怪(もののけ)、中世にかけては怨霊(おんりょう)、御霊(ごりょう)、近世には無縁仏(むえんぼとけ)とか幽霊とかいう。奈良時代末から平安時代末にかけて、天変地異や疫病流行があったのを怨霊の祟りとし、863年(貞観5)には神泉苑(しんせんえん)で御霊会(え)が行われ、祇園(ぎおん)、北野(きたの)、天神(てんじん)、紫野(むらさきの)、今宮(いまみや)などの御霊神社も次々に造営された。これら神社の祭礼は夏祭がおもで、山車(だし)、屋台などを繰り出し、風流(ふりゅう)といって仮装して練り歩くなど、華々しい形をとるものが多い。農村行事にも虫送り、道切り縄など御霊信仰に関連するものが多く、近代初期までの民俗行事に影響を与えた。
[井之口章次]
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疫病をもたらすとされた御霊を恐れ,これを祭り祟りをまぬかれようとする信仰。奈良時代からみられるが,平安時代以降盛んになり,疫病の流行に際して,それを政治的事件により失脚して非業の死を遂げた特定の人物(御霊)の報復ととらえ,祭られるようになった。もともと民間で行われたもので,特定の人格に帰せられるものではなかったが,863年(貞観5)早良(さわら)親王ら6人を神泉苑で祭ったのを初見として,国家の祭としてこの信仰をとりこむようになった。なかでも藤原氏により大宰府に左遷された菅原道真(みちざね)に対する信仰は広く行われた。
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…雷が小童の形で出現することは《日本霊異記》《今昔物語集》の前記の話に見られるが,道場法師が力くらべをした際には深さ3寸の足跡が残ったといわれ,巨人伝説との関連が考えられ,別雷神(わけいかずちのかみ)の伝承や《常陸国風土記》の晡時臥山の伝説などと関連して,この世に降臨した神が異常に成長をとげる話に発展していく経路を示している。平安朝にはいって急速に広まった御霊(ごりよう)信仰によって雷神信仰は天神信仰に統一され,北野天神の眷族(けんぞく)神として低い位置にとどまるようになった。同時に御霊信仰は,人間にとって恐るべき神の存在を強く押し出したものであるため,これによって雷の性格が決定されることになった。…
※「御霊信仰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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