広津和郎(読み)ヒロツカズオ

デジタル大辞泉 「広津和郎」の意味・読み・例文・類語

ひろつ‐かずお〔‐かずを〕【広津和郎】

[1891~1968]小説家評論家。東京の生まれ。柳浪の次男。「神経病時代」で小説家として出発。小説「やもり」「風雨強かるべし」、評論集「作者の感想」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「広津和郎」の意味・読み・例文・類語

ひろつ‐かずお【広津和郎】

小説家、評論家。東京牛込の生まれ。広津柳浪の次男。早稲田大学在学中、葛西善蔵谷崎精二らと「奇蹟」を創刊。卒業後「洪水以後」に文芸評論を発表、批評家として活躍した。大正六年(一九一七)「神経病時代」を発表し作家として出発。戦後、中村光夫との「異邦人論争」、松川事件裁判への抗議など独自の立場をみせた。著「風雨強かるべし」「年月のあしおと」など。明治二四~昭和四三年(一八九一‐一九六八

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「広津和郎」の意味・わかりやすい解説

広津和郎
ひろつかずお
(1891―1968)

小説家。明治24年12月5日、東京市牛込区(現新宿区)矢来町に硯友社(けんゆうしゃ)の作家広津柳浪(りゅうろう)の次男として生まれた。麻布(あざぶ)中学時代から『女子文壇』や『萬朝報(よろずちょうほう)』に投書し、ときどき賞金をもらう。1912年(大正1)早稲田(わせだ)大学英文科在学中に同人雑誌『奇蹟(きせき)』の創刊に加わり、短編、翻訳などを発表。13年に卒業。約半年『毎夕新聞』に勤め、退社後、16年、雑誌『洪水以後』の文芸時評を担当し、まず批評家として認められた。「怒れるトルストイ」(1917)、「志賀直哉(なおや)論」(1919)などの評論はのちに『作者の感想』(1920)に収録され、大正期評論の白眉(はくび)とされている。創作では17年の『神経病時代』を出世作とし、以後の作品は『二人の不幸者』(1918)などの性格破産者物と、『やもり』(1919)などの私小説の二系列に分かれるが、いずれかといえば後者がより高く評価されている。

 その後、有島武郎(たけお)との「宣言一つ」論争(1922)などを通じてしだいに現実や社会への関心を深め、「散文芸術の位置」(1924)で人生に密着した小説の特性を明らかにした。また新興のプロレタリア文学にはその政治万能主義を警戒しつつ自由な知識人の立場から接近し、同伴者作家とよばれた。『風雨強かるべし』(1933~34)はその代表作といえる。昭和10年代の軍国主義の時流には「散文精神について」(1936)、「心臓の問題」(1937)などで鋭い反発をみせた。戦後には中村光夫(みつお)との『異邦人』論争(1951)で批評精神の健在を示し、『松川裁判』(1958)や、『年月のあしおと』正続(1963、67)にその資質をみごとに開花させた。小説構成力には劣るが、現実への鋭い追求心と理想家的な情熱とをあわせもち、しかも型にとらわれない柔軟な思考で知識人の生き方や庶民の哀歓を描いたところに広津文学の独特な魅力がある。芸術院会員。昭和43年9月21日没。

[橋本迪夫]

『『広津和郎全集』全13巻(1973~74・中央公論社)』『橋本迪夫著『広津和郎』(1965・明治書院・近代作家叢書)』『間宮茂輔著『広津和郎 この人との五十年』(1969・理論社・たいまつ双書)』『広津桃子著『父広津和郎』(1973・毎日新聞社)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「広津和郎」の意味・わかりやすい解説

広津和郎【ひろつかずお】

小説家,評論家。広津柳浪の子。東京生れ。早大英文科卒。在学中葛西善蔵らと同人誌《奇蹟》創刊。初め文芸評論家として活躍したが,《中央公論》に《神経病時代》を発表して作家としても注目され,《風雨強かるべし》などで知識人の苦悩を描いた。評論集《作者の感想》のほか,松川事件と取り組んだ労作《松川裁判》(1958年)がある。
→関連項目宇野浩二滝田樗陰谷崎精二中央公論晩春文学界

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「広津和郎」の意味・わかりやすい解説

広津和郎 (ひろつかずお)
生没年:1891-1968(明治24-昭和43)

小説家,評論家。硯友社の作家広津柳浪(りゆうろう)の次男として東京市牛込区に生まれる。早稲田大学英文科卒業。正宗白鳥やチェーホフ,アルツィバーシェフなどの影響を受け,創作や翻訳を始め,1912年舟木重雄,葛西善蔵らと同人雑誌《奇蹟》を創刊。17年,同時代の青年像を〈性格破産者〉として描いた《神経病時代》で新進作家として認められる。また,《怒れるトルストイ》《志賀直哉論》などを収めた評論集《作者の感想》(1920)を刊行,評論家としての評価も高まる。昭和期になると文学者をとりまく時代の動向に関心を強め,小説《昭和初年のインテリ作家》《心臓の問題》などを発表。昭和10年代には独自の〈散文精神〉を説き,《巷の歴史》(1940)に庶民生活を描いた。戦後には松川事件と取り組んだ《松川裁判》(1958)や回想をつづった長編《年月のあしおと》(1963)などがある。大正・昭和にわたる文学活動の基調には,自由主義的なヒューマニズムと散文精神が一貫している。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「広津和郎」の意味・わかりやすい解説

広津和郎
ひろつかずお

[生]1891.12.5. 東京
[没]1968.9.21. 熱海
小説家。広津柳浪の次男。 1913年早稲田大学英文科卒業。在学中,葛西善蔵らと『奇蹟』を創刊。評論活動を経て小説に転じ,大学卒業後半年間就職した経験に基づく『神経病時代』 (1917) が出世作となった。 16年から総合誌『洪水以後』の文芸時評欄を担当,のちにそれらの評論を『作者の感想』 (20) にまとめた。小説では『師崎行』 (18) ,『波の上』 (19) があり,昭和期には『わが心を語る』 (29) ,『風雨強かるべし』 (36) などで,誠実な知識人としての苦悩を描いた。第2次世界大戦後は,A.カミュの『異邦人』をめぐる中村光夫との論争,松川事件の政治性と正面から取組んだ評論『松川裁判』 (54~58) などで知られた。回想録に『年月のあしおと』正続 (63~67) がある。 50年芸術院会員。文芸家協会会長をつとめた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「広津和郎」の解説

広津和郎 ひろつ-かずお

1891-1968 大正-昭和時代の小説家,評論家。
明治24年12月5日生まれ。広津柳浪(りゅうろう)の次男。早大在学中の大正元年葛西(かさい)善蔵らと同人誌「奇蹟」を創刊。6年「中央公論」に「神経病時代」を発表。戦後,中村光夫との「異邦人」論争などおおくの文学論争にかかわり,また「松川裁判」をあらわして裁判批判を展開した。昭和43年9月21日死去。76歳。東京出身。評論集に「わが文学論」など。
【格言など】個性々々と云って,一つの石ころが他の石ころと違うことを得意になっても,お前さん方を大勢一緒に集めて見たら,ただの「砂利」ではないか(「年月のあしおと」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

山川 日本史小辞典 改訂新版 「広津和郎」の解説

広津和郎
ひろつかずお

1891.12.5~1968.9.21

大正・昭和期の小説家・評論家。東京都出身。早大卒。広津柳浪(りゅうろう)の次男。早稲田大学在学中の1912年(大正元)同人誌「奇蹟」を創刊。はじめ文芸評論家として活躍し,17年性格破綻者を描いた「神経病時代」で小説家として注目される。昭和初期には「風雨強かるべし」などで時流に迎合しない同伴者作家の姿勢を示し,忍耐強く現実を凝視し,みだりに悲観も楽観もしない散文精神を主張した。第2次大戦後の代表作に,松川裁判を批判した「松川裁判」がある。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「広津和郎」の解説

広津和郎
ひろつかずお

1891〜1968
大正・昭和期の小説家
柳浪の子。東京の生まれ。早大英文科卒。批判的リアリズムによって知識人の生き方を追求する小説と批評を書き,戦時下では散文精神を説いて,抵抗の姿勢を示した。戦後は松川裁判批判で活躍。代表作に『神経病時代』『松川裁判』など。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android