建長寺船(読み)ケンチョウジブネ

デジタル大辞泉 「建長寺船」の意味・読み・例文・類語

けんちょうじ‐ぶね〔ケンチヤウジ‐〕【建長寺船】

火災で焼失した建長寺の再建費用を得るため、鎌倉幕府公認により正中2年(1325)渡航した貿易船。

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精選版 日本国語大辞典 「建長寺船」の意味・読み・例文・類語

けんちょうじ‐ぶねケンチャウ‥【建長寺船】

  1. 〘 名詞 〙 正中二年(一三二五)、建長寺造営料取得のために鎌倉幕府が渡航を許可した中国、元への商船大友氏博多商人の活躍を背景に、幕府が途中警固沿海の地頭御家人に命じた。のちの天龍寺船先駆をなした。なお建長寺船の称は後世のもので、当時は建長寺造営料唐船と呼ばれた。

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改訂新版 世界大百科事典 「建長寺船」の意味・わかりやすい解説

建長寺船 (けんちょうじぶね)

鎌倉末期,建長寺造営のために元に派遣された幕府公許の貿易船。当時は建長寺造営料唐船と呼ばれた。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて,社寺造営の費用を調達するために,幕府が認めた貿易船が次々に元へ派遣された。建長寺船は,現在知られている中ではその最初のものである。1325年(正中2)7月,博多を出航し,9月に元に到着した。《広瀬文書》によると,同年7月21日から8月5日まで同船の警固をすることが,筑前国御家人中村孫四郎に対して命じられている。26年(嘉暦1)6月,幕府が建長寺住持として迎えた清拙正澄らの元僧をのせて元を出発し,高麗を経由して,同年8月博多に到着した。《比志島文書》によると,同年9月4日薩摩守護代酒匂本性(さかわほんしよう)は,御家人比志島忠範に対して,同国地頭御家人が同船船載物を京都へ運送する兵士役として参勤せよという幕府の命令を伝えている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「建長寺船」の意味・わかりやすい解説

建長寺船
けんちょうじぶね

1315年(正和4)に火災にあった建長寺の造営費捻出(ねんしゅつ)を主目的に、鎌倉幕府の後援を受けて元(げん)に渡航した商船。史料には「建長寺造営料唐船」などとみえる。1325年(正中2)7月ごろ出航し、翌年9月ごろに帰国した。幕府が航海の警固、帰国後の舶載品運送などを、九州地方の地頭御家人(じとうごけにん)に命じていることが知られる。つまり、幕府が渡航を公認し、保護を加えることの見返りとして、帰国後に貿易で得た利潤のうち一定の額を建長寺造営費にあてさせたものであろう。これ以後に続く関東大仏料唐船、天竜寺(てんりゅうじ)造営料唐船(天竜寺船)などの先駆をなすものである。

[石井正敏]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「建長寺船」の意味・わかりやすい解説

建長寺船
けんちょうじぶね

正しくは建長寺造営料唐船という。鎌倉時代の貿易船の一種。正和4 (1315) 年に火災にあった鎌倉の建長寺造営の費用を調達するために鎌倉幕府が公認し,保護を加えて元に派遣した。正中2 (25) 年7月に出帆し,翌嘉暦1 (26) 年9月頃目的を達して帰航したと推定される。天竜寺船のさきがけとして注目される。

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旺文社日本史事典 三訂版 「建長寺船」の解説

建長寺船
けんちょうじぶね

鎌倉末期の対元貿易船
1293・1315年の火災で荒廃した建長寺の再建費用を得るため,1325年幕府の公認により出帆。翌'26年帰朝して銅銭3000貫を寺に納めた。のちの天竜寺船・勘合貿易の先駆となった。

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百科事典マイペディア 「建長寺船」の意味・わかりやすい解説

建長寺船【けんちょうじぶね】

1325年に鎌倉幕府が鎌倉建長寺造営のために元に渡航させた貿易船。建長寺造営寺唐船が正式呼称。寺社造営料唐船として現在知られている最初の船。翌1326年に帰帆。

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