弓削島庄(読み)ゆげのしまのしよう

日本歴史地名大系 「弓削島庄」の解説

弓削島庄
ゆげのしまのしよう

弓削島および属島百貫ひやつかん島(辺屋路へやじ島)を荘域とする東寺荘園

〔平安時代〕

弓削島が初めて史料に現れるのは保延元年(一一三五)六月三日付伊予守藤原忠隆請文(東寺百合文書、以下に引用する文書もすべて東寺百合文書)で、また、当島が荘園としての道をふみだすことになったのは同年九月一三日付伊予国留守所下文案による。

<資料は省略されています>

鳥羽院の院旨および国判を施行した右の留守所下文案によって、弓削島所在の塩浜田畠が所当官物を免除され、国使不入の地となったのである。しかし国役は一度の国司免判で避け切れるものではなかった。初めて荘名の現れる久安六年(一一五〇)九月一六日付弓削島庄百姓等解によると、当荘は院宣庁宣によって勅事・院事を免除されているにかかわらず、国衙留守所の使者が多数の郎党を率いて来島、課役を徴収している。さらに同年一一月の住人らの訴えによると、国衙の役人は、塩一二〇籠を略奪したうえ、庁宣まで取り上げている。

このように、年に二度まで、住民らは解状を提出して国使の横暴を訴え、国司の下文を得ているが、留守所の非法はやまず、十数年後の長寛二年(一一六四)八月から仁安二年(一一六七)二月にかけての四年間に、国衙留守所の非法を訴えた五通の住人等解文、それに対する五通の留守所に対する国司下文、一通の住人等宛留守所の下文が確認できる。住人らの国使の横暴に抵抗する手段は解文(訴状)の提出であったが、そのよりどころとするのは院宣であった。国使らは院宣を略奪することによって、住人らの抵抗の根拠を封じようとしたのである。

長寛二年には、八月に続いて一二月にも住人らは解状を提出しているが、その中で、下付された「御下題御教書」を目代が横領したので、重ねて庁宣を賜りたいと願い出ている。その際「凡両度之費、不可勝計也、逃散之基、何以如之哉」と新たな抵抗手段として逃散を持ち出している。そして、翌々年の永万二年(一一六六)七月には、時の最高権力者の地位にあった後白河法皇の院宣を獲得している。しかし、その後も国使の弓削島への乱入は続き、その度ごとに住人らは「百姓等皆悉交山野」(仁安二年二月二五日付弓削島庄住人等解)、あるいは「無習之住民、各交山野」(承安二年一一月日付弓削島庄住人等解)と、逃散をもって抵抗している。これらの住民について、永万二年七月日の解文には「云作田塩浜二町余、云田堵住人僅十余人」、久安六年一一月二二日の解文には「田堵住人僅廿余人歟」とあり、「住人等」とみずから呼称する住民は、荘内に一〇人余から二〇人余ということになるが、これは住民全員の数を示しているのではなく、年貢・課役を負担する有力農民と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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