日本歴史地名大系 「後瀬山城跡」の解説
後瀬山城跡
のちせやまじようあと
後瀬山の山頂稜線にある中世末期の山城跡。大永二年(一五二二)若狭守護武田元光の築城(若狭郡県志)。元光の父元信の代まで、武田氏は若狭・安芸および名目上は丹後守護も兼ねるかなりの勢力であったが、永正四年(一五〇七)の丹後侵攻で敗退、同一四年に一族の重臣逸見氏が丹後守護代と語らい反乱を起こす(御内書案)など、元光が家督を継いだ頃は内外ともに緊迫した状況にあった。従来の防備では対処できず、より強固な要害として当城を築城した。「数千人の人数を以て石垣を築、櫓を建て要害を構え玉ふ、是は武田殿居城平城なるに依て軍用のため今如是」と「若狭国伝記」は記している。
城は山頂に主郭を置き、南北五〇〇メートル、東西三五〇メートル、主郭から先端郭までの比高一一八メートル。東西斜面はかなり急で、とくに
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報