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後藤庄三郎(初代) ごとう しょうざぶろう

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

後藤庄三郎(初代) ごとう-しょうざぶろう

1571-1625 織豊-江戸時代前期の御金改役(おかねあらためやく)。
元亀(げんき)2年生まれ。後藤徳乗の門人。後藤姓をゆるされ,徳乗の名代として徳川家康のもとで判金を鋳造。金貨などを鑑査する御金改役となって金座を統轄し,銀座の設立にも関与した。寛永2年7月22日死去。55歳。名は光次(みつつぐ)。本姓は橋本,山崎など諸説がある。著作に「駿府記」。

出典|講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて | 情報 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

後藤庄三郎(初代)

没年:寛永2(1625)
生年:生年不詳
江戸初期,江戸幕府の金座主宰者。もと橋本姓,遠江(静岡県)出身で,天正大判を鋳造した後藤四郎兵衛徳乗の門人。文禄2(1593)年,徳川家康の要請で金銀御用のため後藤家名代として関東に下ることとなっていた徳乗の弟七良兵衛が病気のため,代わって庄三郎が名代を勤めることになり,後藤家の養子として一族に加えられ,そのときから庄三郎光次と名乗った。光次は同4年(一説では翌年),わが国最初の鋳造小判である武蔵墨書小判を,関八州の領国向け通用のため江戸で初鋳した。次いで小額金貨である,短冊型の一分金試作にとりかかり,小判についても広く,ひんぱんに通用できる極印打ちに改め,慶長5(1600)年,量目,品位とも一定ないわゆる慶長小判・一分判を大量に鋳造,発行させた。翌年には末吉勘兵衛と共に銀座を設立し,徳川氏の金銀貨を全国貨幣として流通させるため,指導性を発揮した。また,光次は家康の厚い信任を得て,その側近のひとりとして幕府財政にも深くかかわり,朱印状の発給や,外交交渉にも他の重臣と共に関与するなどした。大坂夏の陣(1615)のあとは眼病を得,隠居して庄右衛門と称した。 金座主宰者としての職はその後も庄三郎家が代々継承したが,金貨への極印は幕末まで初代の光次名で打たれた。ただし,11代光包のとき,金包方に不正が発覚し,文化7(1810)年伊豆三宅島に流罪となって,200年余続いた同家は絶家となった。<参考文献>日本銀行調査局編『図録日本の貨幣』2巻,3巻

(岩橋勝)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について | 情報

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