江戸時代の小判,一分金鋳造所をいう。勘定奉行の支配下におかれていた。二分金,二朱金,一朱金,五両判などを造ったのは後代になってからで,金座といえば小判,一分金の検定極印(ごくいん)および包封をつかさどる江戸の後藤庄三郎役所のことであった。慶長の幣制(1601)成立の当時から日本橋本町一丁目(現在の日本銀行所在地)にあった。ただし,金座すなわち後藤庄三郎役所と,その近辺に居住して,それぞれの自宅で実際に小判,一分金を造っていた小判師たちとは別であるが,小判師たちは後藤庄三郎の支配下にあったので両者を切りはなしては考えず,単に後藤とか金座とかいっていた。また近世初期の武鑑類を見ると,世俗では金座と大判座とがまだ判然とは区別されていないことがわかる。1695年(元禄8)の金銀改鋳にさいしては,本郷霊雲寺付近の大根畑(本郷金助町)に改鋳工場が設けられて,この総囲いの中で金銀座一団となって作業が行われた。98年になると,改鋳工場は引き払われて本町一丁目の後藤の邸内に移された。以来,小判師たちによる小判,一分判の〈銘々手前作り〉は廃止となったが,時の経過とともに後藤邸内に移った小判師たちの一団を,後藤とは切りはなして金座と称するようになった。当初からの小判師であった坂倉九郎次家の家記《吾職秘鑑》の冒頭に〈金座と云名号は元禄年中金銀吹替有しより以来の名号なり〉と述べるのは,小判師の一団としての金座の起りを説明したものであろう。
金座は,元禄の改鋳以前から京都にも置かれており,佐渡にも小判所が置かれていた。享保(1716-36)初年のものと思われる《京都御役所向大概覚書》によると,当時の金座関係者は合計121人という多人数であった。元文の改鋳(1736)にさいし金座関係者に与えられた分一金(ぶいちきん)(手当)を見ると,鋳造高1000両につき後藤庄三郎10両,金座10両2分,吹所(細工所)4両の計24両2分,すなわち2.45%であった。その後,小判師たちから成る金座人は,1765年(明和2)から後藤の支配下に鋳銭定座(じようざ)の兼帯を命ぜられ,銀座とともに近世後期の鋳銭に従事した。天保通宝のごときも金座で造られている。他方,1791年(寛政3)金座改正が行われ,多数の金座人は免ぜられて金座定勤というものが定められ,江戸・京都それぞれ10人,佐渡2人となり,吹所の者も江戸・京・佐渡それぞれ2人となった。またこの改正で京都金座での鋳造は停止され,以後は御所御用箔ならびに京坂金職の取締りにのみ従うこととなって,明治維新に及んだ。
執筆者:田谷 博吉
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江戸幕府直轄の金貨の鋳造所。徳川家康は1595年(文禄4)、京都から彫金家の後藤庄三郎光次(しょうざぶろうみつつぐ)を関東に招いて、駿府(すんぷ)および江戸で武蔵小判(むさしこばん)(一両判)を鋳造させた。ついで家康は1600年(慶長5)には京都、佐渡にも金座を設け、翌年から慶長小判・一分金をつくらせた。慶長大判(十両判)は1601年から後藤徳乗(とくじょう)(庄三郎の師)およびその一族により大判座で鋳造された。
金座の組織は御金改役(おかねあらためやく)、金座、吹所(ふきどころ)からなり、御金改役は金座の頭人(とうにん)(長官)で、新鋳金貨の鑑定ならびに極印(ごくいん)の打ち込みを行い、後藤家の世襲であった。金座は年寄役、触役(ふれやく)、勘定役(かんじょうやく)、平役など一定数の座人で構成され、勘定奉行(ぶぎょう)の支配下に置かれていた。また吹所は鋳造工場で、座人監督の下に小判師が徒弟を使って小判を吹き立てた。金座という名のおこりは、元禄(げんろく)期(1688~1704)の貨幣改鋳に際して、江戸の本郷霊岸寺(れいがんじ)の近くにあった鋳造所が本町一丁目(現在の日本銀行本店所在地)にあった金座後藤の役宅に移されたとき、世人がこれをよんで金座といったことに始まると伝えられる。金座では1810年(文化7)と1845年(弘化2)の2回にわたって不正が露見したので、後藤家は取り潰(つぶ)しとなった。金座は1866年(慶応2)焼失し、69年(明治2)には造幣局の設置に伴って廃止された。
[作道洋太郎]
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江戸時代の金貨鋳造機関。はじめ小判座ともよばれた。1595年(文禄4)に江戸へ招請された後藤庄三郎光次(みつつぐ)は徳川氏の領国貨幣を鋳造したが,その全国統一後,金銀改役(あらためやく)(のち金改役)として慶長金の鋳造を統轄し,小判師が鋳造した小判・一分金を検定し極印(ごくいん)を打った。この時期は後藤・小判師の自家営業を主体としたが,元禄改鋳を機に分一金支給による請負方式に変更され,後藤役所・金局(金座人役所)・吹所(ふきしょ)という組織の整備も進んだ。留守居支配から,のち勘定奉行の支配をうけた。江戸のほか,はじめ京都・駿府・佐渡にも設けられたが,その後佐渡だけ断続的に鋳造を行った。
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…安土桃山時代には豊臣秀吉が各種の金銀貨を鋳造し,これを軍資金とした。 江戸時代には徳川家康が1601年(慶長6)に幣制を統一し,金座・銀座・銭座を設けて金銀銭貨を鋳造し,この三貨を全国通用の正貨とした。金貨には大判(10両)・5両判・小判(1両)・2分金・1分金・2朱金・1朱金があり,銀貨には秤量貨幣の丁銀・豆板銀(小玉銀・小粒銀)のほか,定位銀貨として5匁銀・1分銀・2朱銀・1朱銀が造られた。…
…領国貨幣の多くは元禄期(1688‐1704)に消滅し,幕府貨幣に統一されていったが,元禄期以後にも引き続いて鋳造された場合も見られる。領国貨幣の中で最も代表的な甲州金は戦国期の武田氏の時代に始まり,松木・野中・山下・志村の4家が甲州金の金座をつとめた。慶長期(1596‐1615)以後はそのうち松木家だけが金座の役職を命ぜられている。…
※「金座」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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