後谷村(読み)うしろやむら

日本歴史地名大系 「後谷村」の解説

後谷村
うしろやむら

[現在地名]八潮市南後谷みなみうしろや

綾瀬川左岸の沖積地に位置し、東は松之木まつのき村、北はたてほり(現草加市)。田園簿では田方一四七石余・畑方二九石余、幕府領領主の変遷はつる曾根そね村と同じ。天保六年(一八三五)の八条領村鑑(小沢家文書)によると、貞享元年(一六八四)検地で高二六七石余、反別は田方二八町二反余・畑方一一町三反余、用・排水は八条用水組合・綾瀬川筋藻刈組合に所属。天保六年の家数二四・人数一六二、ほかに鎮守の八幡・山王社(現八幡神社)真言宗(現単立)西福さいふく寺がある。


後谷村
うしろだにむら

[現在地名]勝山町後谷・後谷畝うしろだにうね

月田つきだ川の支流後谷川の狭い河岸段丘上の後谷村と、その東の高原地帯で、大平おおひら川の源流にあたる後谷畝村からなる。周辺は四〇〇メートル級の山で、西は若代わかしろ村、東は荒田あらた村、南は月田本つきだほん村、北は高田山上たかたやまうえ村。「作陽誌」に若代村の後ろに位置したので後谷と称したとあり、延宝七年(一六七九)後谷畝村が分村したと記す。正保郷帳に後村とあり、田高一九六石余・畑高一八三石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳には後谷村とあり村位は下、改出高一三〇石余・開高二一石余。同年の美作国郷村帳では後谷村三〇五石余・後谷畝村二二七石余と分けて記される。領主の変遷は江川えがわ村と同じ。


後谷村
うしろだにむら

[現在地名]小野市栄町さかえちよう大開町だいかいちよう

長尾ながお村の東に位置し、万勝寺まんしようじ川の左岸に立地する。標高約一四〇メートルの丘陵谷間の地に集落が形成され、狭小な耕地が後谷川沿いに開かれている。丘陵を隔て北は万勝寺村。享禄年間(一五二八―三二)長尾村の住人が谷の東を開発し、移住したのが始まりというが(加東郡誌)、永享六年(一四三四)八月日の大部庄公文恒清・伊王名夏地子納帳(東大寺文書)に後谷の二郎の名がみえる。


後谷村
うしろだにむら

[現在地名]金沢市菊水町きくすいまち

どう村の南、内川うちかわの上流域最奥部の山間に位置し、同川の水源地帯にあたる。正保郷帳では高九一高余、田方三反余・畑方五町七反余、寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高九六石・免四ツ二歩で、定納四四石余のうち二一石は翌年六月の代銀納、ほかに山役二六一匁・炭役九七匁の小物成があった(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数二二・百姓数三一(高免付給人帳)。元禄一一年(一六九八)金沢町の笹塚屋喜兵衛が出資して当村松色地内で一年間ほど鉱脈探査の試掘が行われたが、鉱脈は発見できなかった(改作所旧記)


後谷村
うしろだにむら

[現在地名]上越市後谷

塩荷谷しおにだに村の南、綱子つなご川上流の山中に位置。正保国絵図に村名がみえ高七石。天和三年郷帳では三一石余、うち漆高四升五合。不動明王を祀り村中支配(頸城郡誌稿)。南西方、現新井市との境に青田南葉あおたなんば(九四九・三メートル)、南方に籠町南葉かごまちなんば(九〇九・一メートル)がそびえる。南葉は難波・南波とも書き、近世には前者を表南葉山、後者を裏南葉山とよんだ。「頸城郡誌稿」は南葉山について「此山高田城市未申ノ方ニアル丸山ナリ、又此山ニ八ツ橋ナルモノアリ、毎日未ノ時ニ至レバ夕日ニ輝キテ城市ヨリ見ユ、又消雪ノ季大男ノ形ヲ顕ス、俗ニ難波ノ大男形トテ消雪ノ春季ヲ知ル一助トス」と記す。


後谷村
うしろだにむら

[現在地名]小矢部市後谷・石動町いするぎまち

今石動いまいするぎ町・上野うわの村の西の丘陵地にある。北陸街道が通る。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数五、桜町組に属する。正保郷帳では高二六九石余、田方一五町九反余・畑方二町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二五三石・免六ツ、小物成は山役五五匁(三箇国高物成帳)。所属組は坂又さかまた村に同じ。天保一〇年(一八三九)の高物成帳(菊池家文書)によると、享保三年(一七一八)の検地引高六三石、一方手上高もあり高一九七石。今石動町の南上野町の木戸に接する村で、北陸街道沿いに町並(出村町端)が形成されていた。


後谷村
うしろやむら

[現在地名]越谷市北後谷きたうしろや

西新井にしあらい村の北に位置し、西は釣上かぎあげ(現岩槻市)。田園簿に村名がえ、高は田方三四九石余・畑方三六石余、幕府領。寛文四年―天和二年(一六六四―八二)の領主は越巻こしまき村に同じ。同年からは上野吉井藩堀田氏領、元禄一二年(一六九九)下野皆川藩米倉氏領となる(松沢家文書)。享保七年(一七二二)同氏の居所移動により武蔵六浦藩領となり、幕末に至る(天保九年「六浦藩郷村高辻帳」米倉家文書など)


後谷村
うしろだにむら

[現在地名]西山町後谷

北の鎌田かまた村の後谷といわれた。南東は長嶺ながみね村、南は宮川みやがわ(現柏崎市)滝谷たきや新田(現刈羽村)、西は椎谷しいや(現柏崎市)宮川村。周囲を小山に囲まれた盆地で、中央を後谷川が流れ別山べつやま川右岸に合流する。


後谷村
うしろだにむら

[現在地名]益田市種村町たねむらちよう

沖田おきた川の支流後谷川の水源流域に位置し、東と北は矢原やばら(現三隅町)、南は千振ちぶり村、西は下種しもたね村。地名は山峡の地形に由来する。後谷川の細流が谷間を削るように流れているため、山肌や谷を利用して、櫨や楮の栽培を行った。江戸時代の支配の変遷は持石もちいし村と同じ。


後谷村
うしろやむら

[現在地名]三郷市後谷

小谷堀こやぼり村の東に位置し、東は前間ぜんま村。田園簿に記載がなく、もとは前間村の内に含まれていたという(風土記稿)元禄郷帳に村名がみえ、高一〇一石余。江戸時代を通じて幕府領であったと思われる(「風土記稿」・改革組合取調書など)。検地は元禄八年(一六九五)に武蔵国幕府領総検地の一環として実施され、明和三年(一七六六)には新田検地が行われたという(「風土記稿」など)


後谷村
うしろだにむら

[現在地名]多賀町後谷

水谷すいだに村から山一つ隔てた東にある。寛永石高帳に高五二石余とある。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば男七〇・女六七。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android