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徳川忠長 とくがわただなが

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

徳川忠長
とくがわただなが

[生]慶長11(1606).5.7. 江戸
[没]寛永10(1633).12.6. 高崎
江戸時代初期の大名秀忠の3男。母は浅井氏。幼名は国松。通称は駿河大納言。父母の寵愛を一身に集め,兄家光をさしおいて世子に擬せられたが実現しなかった。元和2 (1616) 年甲斐に封じられ,寛永2 (25) 年さらに駿河,遠江を加増されて 55万石を領した。翌年8月 20日従二位大納言に叙任。同8年5月乱行を理由に甲州へ蟄居を命じられ,翌年には上州高崎へ移され,同 10年高崎の大進寺で自刃

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デジタル大辞泉の解説

とくがわ‐ただなが〔トクがは‐〕【徳川忠長】

[1606~1634]江戸初期の大名。徳川2代将軍秀忠三男で3代将軍家光の弟。通称駿河大納言。兄家光にうとまれ、秀忠の死後自刃。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

徳川忠長 とくがわ-ただなが

1606-1634* 江戸時代前期の大名。
慶長11年5月7日生まれ。徳川秀忠(ひでただ)の3男。母はお江与(えよ)の方(崇源院)。寛永元年駿河(するが)(静岡県)府中藩主となる。55万石。3年従二位,権(ごんの)大納言。駿河大納言とよばれた。兄の3代将軍徳川家光(いえみつ)との確執から,8年甲斐(かい)(山梨県)に蟄居(ちっきょ),ついで上野(こうずけ)(群馬県)高崎に幽閉され,寛永10年12月6日自害させられた。28歳。幼名は国松。

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朝日日本歴史人物事典の解説

徳川忠長

没年:寛永10.12.6(1634.1.5)
生年:慶長11.5.7(1606.6.12)
江戸前期の駿河国駿府藩(静岡市)藩主。徳川2代将軍秀忠の3男。3代将軍家光の弟。母は秀忠の正室崇源院(於江与)。慶長11(1606)年江戸城に生まれる。童名国松。秀忠夫妻が才智にめぐまれた忠長を寵愛したため,次期将軍になるとの風評があり,危機感をいだいた家光の乳母春日局 は,駿府の家康に嘆願し,家康の指示で家光が世子と決定した。元和4(1618)年甲斐国を領地として与えられた。同6年元服し,従四位下参議に叙任。寛永1(1624)年駿府藩主となり,駿河,遠江両国55万石を領した。3年8月には従二位権大納言に叙任されたので,世に駿河大納言と称された。5年ごろから忠長の行動が荒れ,8年に入ると,家臣を手討ちにしたり,仕えていた少女を唐犬に食わせたりという異常な行動が目立ち始め,江戸で頻発していた辻斬りも忠長の仕業であると噂された。3月末,付家老朝倉宣正の切腹を上訴したことから,秀忠は忠長を付家老鳥居忠房の領地甲斐谷村に蟄居させた。10年9月,前年1月の秀忠の死後親政を行っていた家光が重病に陥ると,世間には忠長与党の大名が反乱を起こそうとしているという噂が飛び交った。ために危機感をいだいた家光は,病気回復後,忠長を安藤重長の領地上野高崎に移し,阿部重次を派遣して自害を命じた。自害の場所は高崎の大進寺。<参考文献>山本博文『寛永時代』

(山本博文)

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世界大百科事典 第2版の解説

とくがわただなが【徳川忠長】

1606‐33(慶長11‐寛永10)
江戸前期の大名。幼名国松。世に駿河大納言ともいわれる。2代将軍秀忠の三男。母は正室江与の方(崇源院)。3代将軍家光の弟。甲府20万石にはじまり,1624年(寛永1)甲斐・駿河などで55万石を領し,駿府城に入る。才知にすぐれ父母に寵愛されたため家光にはうとまれたといわれ,また30年ころから乱行が目だったため,31年甲府に蟄居(ちつきよ),翌年上野高崎城に幽閉され,33年自刃した。これにより徳川宗家権力は強化された。

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大辞林 第三版の解説

とくがわただなが【徳川忠長】

1606~1633) 江戸初期の大名。幼名国松。通称駿河大納言。将軍秀忠の三男。駿府五五万石の大名だったが、兄の将軍家光と不和になり、改易後上野高崎城で自刃させられた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

徳川忠長
とくがわただなが
(1606―1633)

江戸初期、2代将軍秀忠(ひでただ)の第3子。母は正室浅井氏お江(ごう)。3代将軍家光(いえみつ)の同母弟。駿河大納言(するがだいなごん)と称された。父母に愛され兄家光と3代将軍の座を争ったが、祖父家康の裁定で家光が後継者に決したという著名な話がある。将軍家連枝(れんし)として甲斐(かい)国(山梨県)が与えられ、ついで駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)の所領が加えられ、駿府(すんぷ)城に居し、55万石を領するに至った。官位も従(じゅ)二位、権(ごん)大納言に昇った。しかし1631年(寛永8)には大御所秀忠(ひでただ)にその粗暴の行為がとがめられ甲州内で蟄居(ちっきょ)することを命ぜられた。忠長は金地院崇伝(こんちいんすうでん)、南光坊天海(てんかい)らを通じて赦免を請うたが許されず、翌年秀忠没後、上州(群馬県)高崎に移され幽閉され、領地は没収された。そして寛永(かんえい)10年12月6日自殺せしめられた。忠長は優れた人物だったとする説もあり、この事件については狂気説のほか陰謀説など諸説があって、真相はかならずしも明らかではない。[林 亮勝]
『若林淳之著「徳川忠長」(『大名列伝 3』所収・1967・人物往来社)』

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367日誕生日大事典の解説

徳川忠長 (とくがわただなが)

生年月日:1606年5月7日
江戸時代前期の大名
1634年没

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世界大百科事典内の徳川忠長の言及

【徳川家光】より

…江戸幕府3代将軍。2代将軍秀忠の次男(長男長丸は早死)。母は浅井長政の三女江与(えよ)(逵子(みちこ),崇源院)。幼名竹千代。法号大猷院。誕生とともに稲葉重通の養女福子(のちの春日局(かすがのつぼね))が乳母となる。永井直貞・松平信綱・稲葉正勝(春日局の子),おくれて阿部忠秋らが小姓に召された。幼時,両親の愛情は弟国千代(忠長)にそそがれていたが,祖父家康が嫡庶の序にしたがい世子と定めさせたと伝えている。…

【松平長七郎】より

…江戸初期の武家。一説では,駿河大納言徳川忠長の子,名は長頼,1614年(慶長19)に生まれ,61年(寛文1)に没したという。この伝によれば,忠長が大逆不道の罪をもって28歳で自刃した33年(寛永10)には長七郎20歳となり,年齢が相応しない。…

※「徳川忠長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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