(山本博文)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
江戸初期、2代将軍秀忠(ひでただ)の第3子。母は正室浅井氏お江(ごう)。3代将軍家光(いえみつ)の同母弟。駿河大納言(するがだいなごん)と称された。父母に愛され兄家光と3代将軍の座を争ったが、祖父家康の裁定で家光が後継者に決したという著名な話がある。将軍家連枝(れんし)として甲斐(かい)国(山梨県)が与えられ、ついで駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)の所領が加えられ、駿府(すんぷ)城に居し、55万石を領するに至った。官位も従(じゅ)二位、権(ごん)大納言に昇った。しかし1631年(寛永8)には大御所秀忠(ひでただ)にその粗暴の行為がとがめられ甲州内で蟄居(ちっきょ)することを命ぜられた。忠長は金地院崇伝(こんちいんすうでん)、南光坊天海(てんかい)らを通じて赦免を請うたが許されず、翌年秀忠没後、上州(群馬県)高崎に移され幽閉され、領地は没収された。そして寛永(かんえい)10年12月6日自殺せしめられた。忠長は優れた人物だったとする説もあり、この事件については狂気説のほか陰謀説など諸説があって、真相はかならずしも明らかではない。
[林 亮勝]
『若林淳之著「徳川忠長」(『大名列伝 3』所収・1967・人物往来社)』
江戸前期の大名。幼名国松。世に駿河大納言ともいわれる。2代将軍秀忠の三男。母は正室江与の方(崇源院)。3代将軍家光の弟。甲府20万石にはじまり,1624年(寛永1)甲斐・駿河などで55万石を領し,駿府城に入る。才知にすぐれ父母に寵愛されたため家光にはうとまれたといわれ,また30年ころから乱行が目だったため,31年甲府に蟄居(ちつきよ),翌年上野高崎城に幽閉され,33年自刃した。これにより徳川宗家権力は強化された。
執筆者:杣田 善雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…江戸幕府3代将軍。2代将軍秀忠の次男(長男長丸は早死)。母は浅井長政の三女江与(えよ)(逵子(みちこ),崇源院)。幼名竹千代。法号大猷院。誕生とともに稲葉重通の養女福子(のちの春日局(かすがのつぼね))が乳母となる。永井直貞・松平信綱・稲葉正勝(春日局の子),おくれて阿部忠秋らが小姓に召された。幼時,両親の愛情は弟国千代(忠長)にそそがれていたが,祖父家康が嫡庶の序にしたがい世子と定めさせたと伝えている。…
…江戸初期の武家。一説では,駿河大納言徳川忠長の子,名は長頼,1614年(慶長19)に生まれ,61年(寛文1)に没したという。この伝によれば,忠長が大逆不道の罪をもって28歳で自刃した33年(寛永10)には長七郎20歳となり,年齢が相応しない。…
※「徳川忠長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新