心形刀流(読み)しんぎょうとうりゅう

精選版 日本国語大辞典 「心形刀流」の意味・読み・例文・類語

しんぎょうとう‐りゅうシンギャウタウリウ【心形刀流】

  1. 〘 名詞 〙 剣道一派元祿一六八八‐一七〇四)の頃、信州の人伊庭是水軒秀明の創始したもの。本心刀流志賀十郎兵衛に学んだのち、自ら工夫を加えて創始。この流では本心を練るのを第一とし、形によって本心をつかむように努めた。江戸下谷御徒町に道場を開き、江戸四大道場一つに数えられた。しんけいとうりゅう。
    1. [初出の実例]「心形刀流 伊庭是水軒光明」(出典:武術流祖録(1843)刀術)

しんけい‐とうりゅう‥タウリウ【心形刀流】

  1. 〘 名詞 〙しんぎょうとうりゅう(心形刀流)〔戊辰物語(1928)〕

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「心形刀流」の意味・わかりやすい解説

心形刀流
しんぎょうとうりゅう

近世剣術の一流派、流祖は伊庭是水軒秀明(いばぜすいけんひであき)(1649―1713)。秀明は信州の産で、通称は惣左衛門(想左衛門)(そうざえもん)、剣号(表徳号(ひょうとくごう))を常吟子(じょうぎんし)という。性撃剣を好み、初め柳生新陰(やぎゅうしんかげ)流を学び、のち江戸で武蔵(むさし)流の二刀を修めたという。壮年、廻国(かいこく)修行に出て、上州路で安藤不睡(ぶすい)に一刀流を、ついで濃州で本心刀(ほんしんとう)流を志賀十郎兵衛秀則(ひでのり)(如見斎(じょけんさい)・常理子)に学んだ。とくにこの本心刀流に強くひかれ、志賀の師大藤(おおとう)弥次右衛門秀成を京都に訪ね、さらに大藤の紹介で、その師妻形謙寿斎貞明(めがたけんじゅさいさだあき)を大和(やまと)の山中に訪(と)い、ついにその奥旨を究め、1681年(天和1)三者連名の印可状を与えられた。翌82年江戸へ戻り、下谷御徒町(したやおかちまち)に道場を開き、本心刀流を中心にその他の諸流をあわせて、心形刀流を唱えた。2代軍兵衛秀康(常全子)は秀明の長子で、父の業を継いで盛んに門弟を取り立て、流儀の体系を整し、形を正しくし心を剛直にするくふうが肝要であると説いた。また宗家の相続はかならずしも実子に限らず、門人中より技術・人物の優秀な者を選んで相続させることを家憲とした。3代軍兵衛直保(常備子)、5代軍兵衛秀矩(常明子)、6代八郎次秀長(常球子)、8代軍兵衛秀業(常同子)はいずれも養子または聟(むこ)養子であった。この8代秀業は本姓三橋銅四郎(みつはしどうしろう)、いわば伊庭家中興の名剣士で、下谷の伊庭道場はふたたび活況を呈し、世人から千葉・斎藤・桃井のそれと並んで、江戸の四大道場とよばれた。天保(てんぽう)の改革の際、老中水野忠邦(ただくに)にその剛直さを認められ御書院番に登用された。水野の失脚で辞職し、1856年(安政3)講武所開設のときも出仕を固辞したが、養子の惣太郎秀俊、兄の子三橋虎蔵(みつはしとらぞう)、湊信八郎(みなとしんぱちろう)の3人を教授方として出仕させ、伊庭道場の実力を示した。9代軍兵衛を継いだ秀俊(常心子)は垪和(はが)氏からの養子で、教授方から師範役、さらに奥詰・遊撃隊頭取に進んだ。秀俊の養子で、遊撃隊長として豪勇をうたわれ、五稜郭(ごりょうかく)で戦死した八郎(八郎治秀穎)は、実は秀業の次男である。

[渡邉一郎]

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デジタル大辞泉プラス 「心形刀流」の解説

心形刀流(しんぎょうとうりゅう)

剣術の流派のひとつ。江戸時代前期、信州出身で本心刀流を修めた伊庭(いば)是水軒秀明が創始し、江戸に道場を構えた。幕末に隆盛期を迎え、江戸三大道場とうたわれた玄武館(北辰一刀流)、練兵館(神道無念流)、士学館(鏡新明智流)に次ぐ人気を誇った。

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