改訂新版 世界大百科事典 「忌部氏」の意味・わかりやすい解説
忌部氏 (いんべうじ)
斎部とも書く。古代の宮廷祭祀において,中臣(なかとみ)氏と並んで重要な地位を占めた氏。中央の忌部氏の本拠は,現在の奈良県橿原市忌部町付近にあり,太玉命(ふとたまのみこと)神社(現,天太玉命神社)をまつっていた。この神社の祭神は,太玉命のほかに,大宮売(おおみやのめ)命と豊磐間戸(とよいわまど)神,櫛磐間戸(くしいわまど)神の計4座であった。祝詞によれば,これらの神々は,天皇の長寿と御門を守護する神々として現れ,忌部氏はその幣帛(へいはく)を神主,祝(はふり)にわかつことをつかさどっている。おそらく,5世紀後半から,6世紀前半ころにその地位を確立し,大嘗宮(だいじようぐう)の神璽(しんじ)の捧持に当たり,それにともなう大殿祭,御内祭を主催した。また諸国の忌部に供神の幣帛や,祭具などの製造に当たらせたようである。諸国の忌部の代表的なものに〈紀伊の忌部〉があり,彦狭知(ひこさち)命を祭神とし,名草郡御木・麁香(忌部・荒墓)郷を本拠とし笠の製造や瑞殿(みずのあらか)の材木切出しなどに従事していた。〈讃岐の忌部〉は手置帆負(たおきほおい)命を祭神とし神矛などの製作に当たった。〈阿波の忌部〉は麻殖郡忌部郷(現徳島県吉野川市,旧山川町忌部)を中心とし,大嘗祭の木綿(ゆう)や麁布(あらたえ)などを貢し,〈出雲の忌部〉は,櫛明玉(くしあかるたま)命を祭神として玉類の製造を担当していた。そのほか伊勢や備前,越前などにも分布していたらしい。その忌部氏も大化前代には蘇我氏と結びついて祭官として勢力を振るったが,大化以後かえって中臣氏におさえられ,しだいにその地位をおびやかされ,その下風に立つようになった。それをなげいて上書したのが,斎部広成(いんべのひろなり)の《古語拾遺》である。
→三蔵(さんぞう)
執筆者:井上 辰雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報