日本大百科全書(ニッポニカ) 「忘筌」の意味・わかりやすい解説
忘筌
ぼうせん
京都・大徳寺塔頭(たっちゅう)孤篷庵(こほうあん)の客殿(本堂)に造り込まれた座敷。小堀遠州最晩年の作品として貴重であったが、1793年(寛政5)孤篷庵は焼失した。しかしまもなく松平不昧(ふまい)や近衛(このえ)家の援助を得て再興が図られ、とくに忘筌は、軒内の飛び石や灯籠(とうろう)、手水鉢(ちょうずばち)が焼け残ったこともあって、遠州による創建当初の姿に忠実に復原された。新しい客殿は塔頭雲林院から移築され、97年6月に上棟、忘筌は檀那(だんな)間(客殿西側前室)の北側に建て継がれた。全体十二畳敷で、八畳に一間床(どこ)と点前座(てまえざ)一畳を付し、さらに三畳を添えている。点前座を中央部に配し、床と点前座を並べた構えは、遠州の得意とした形式である。角柱に内法長押(うちのりなげし)を打ち、張付壁、高欄(こうらん)付の広縁と落縁(おちえん)を備えた構成は、完全な書院造の様式を示している。しかし縁先には「露地草庵」の機能が巧みに組み込まれている。すなわち、縁先に中敷居を入れ、上に明(あかり)障子を建て下方を吹き抜いた構成によって、低く据えられた縁先の手水鉢や灯籠などが形づくる内露地の風景だけを切り取り、室内と結び付けられている。また犬走りの飛び石は縁先の沓脱(くつぬぎ)石に達するが、入口の鴨居(かもい)に相当する中敷居は低いので、自然に潜(くぐ)りを形成することになる。床(とこ)にも室内と一線に長押を打ち回して上昇感を抑え、きゃしゃな砂摺(すなずり)天井を重厚な軸部と調和させている。遠州はここにおいて、書院様式による茶室のくふうを完成させた。
[中村昌生]