応永の乱(読み)オウエイノラン

デジタル大辞泉 「応永の乱」の意味・読み・例文・類語

おうえい‐の‐らん【応永の乱】

応永6年(1399)大内義弘足利義満に背いて堺に挙兵、敗死した事件。これを機に、守護大名に対する将軍権力が確立した。

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精選版 日本国語大辞典 「応永の乱」の意味・読み・例文・類語

おうえい【応永】 の 乱(らん)

室町初期の応永六年(一三九九)、大内義弘が起こした反乱。将軍足利義満に対抗し、関東管領(かんれい)足利満兼らと結んで堺に挙兵したが、義満は畠山斯波の軍を率いてこれを討ち、守護大名に対する将軍権力を確立した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「応永の乱」の意味・わかりやすい解説

応永の乱
おうえいのらん

1399年(応永6)有力守護大内義弘(おおうちよしひろ)が室町幕府に対して起こした反乱。義弘は九州鎮圧や明徳(めいとく)の乱(1391)の平定および南北朝合体の斡旋(あっせん)などの功によって、父弘世(ひろよ)時代の周防(すおう)、長門(ながと)に加え、石見(いわみ)、豊前(ぶぜん)、和泉(いずみ)、紀伊(きい)の守護となり、さらに対朝鮮貿易により富強を誇っていた。一方、南朝合体に成功した将軍足利義満(あしかがよしみつ)は幕府権力の安定・絶対化を図るため、有力守護への抑圧服従を強要しようとし、その機会をねらっていた。このような義満にとって、義弘による対朝鮮貿易の独占的傾向と、幕府の九州統一と密接する対明(みん)貿易への強い干渉は、先に解任した九州探題今川了俊(りょうしゅん)を想起させ、義弘討伐を決意させるに至った。1396年の渋川満頼(みつより)の九州探題就任以降、九州では動乱が生じており、義満は、義弘が九州へ赴いたのを好機として挑発を開始した。これに対し義弘は、当時義満と対立していた鎌倉公方(くぼう)足利満兼(みつかね)と結び対抗、99年10月、領国和泉の堺(さかい)(大阪府堺市)に上陸し、義満の政治を批判、満兼の御教書(みぎょうしょ)を奉じ討伐の意志を明らかにした。義満は11月の初めに数万の大軍を発向(はっこう)させたため、義弘は堺に多くの井楼(せいろう)や櫓(やぐら)を設け籠城(ろうじょう)。同月29日両軍は戦闘に及んだが勝敗は決しなかった。これと前後して満兼は諸国に反幕府の挙兵を呼びかけ、自ら上洛(じょうらく)を意図したが果たせなかった。一方、堺では12月21日に幕府軍の総攻撃により義弘は戦死し、弟の弘茂(ひろもち)は降服した。この結果、翌1400年3月には東国、鎌倉も鎮静に帰し、義満は乱後の処置として、大内氏より和泉、石見、紀伊、豊前を没収し、弘茂に周防、長門を安堵(あんど)した。しかし、義弘に後事を任されていた別弟の盛見(もりはる)は、弘茂の入国を拒否し、01年には弘茂を敗死させるなどその勢力を圧したため、幕府は盛見と和し、周防、長門の守護に任じた。こうして義満の大内氏勢力削減は達成され、この後、室町幕府の全盛期を創出するに至った。しかし、応永の乱の事後処理に幕府が不十分な措置をとらざるをえなかったことは、最終的に幕府による守護大名の統制に大きな影響を及ぼすことになった。

[久保田昌希]

『佐藤進一著『南北朝の動乱』(『日本の歴史 9』1965・中央公論社)』『松岡久人著『大内義弘』(1966・人物往来社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「応永の乱」の意味・わかりやすい解説

応永の乱 (おうえいのらん)

1399年(応永6)西国の雄大内義弘が,室町幕府・将軍権力に反抗して敗死した乱。防長を基盤とする大内氏は,弘世,義弘と2代にわたり,今川了俊の九州経営,明徳の乱における山名氏の討滅など室町幕府権力の確立に多大の貢献があった。義弘の代には,防長,石見に加え,豊前,紀伊,和泉など6ヵ国守護職を兼帯する大守護となった。このような大内氏と,将軍権力の絶対化および足利氏一門を中心とする全国支配体制を志向する幕府中枢との対立は早晩避けられないことであった。また,対外関係も重要な対立の契機であった。今川了俊の九州探題失脚後,大内義弘は事実上の朝鮮貿易の主体となっていた。対明貿易を意図し,外交権独占によって将軍権力の完成を目ざす将軍足利義満にとって,対外貿易主体の分散は許されない事態であった。97年末義弘は渋川満頼の援軍として鎮西に下向するが,菊池氏などの平定後も容易に上洛しなかった。義満・幕府中枢による謀略の有無を確かめながら,対抗策として反幕勢力の統合を策したのであろう。将軍と鎌倉公方との対立は,前代氏満のころから顕在化していたが,義弘は今川了俊を通じて公方足利満兼と気脈を通じ東西から幕府挟撃作戦を立てた。美濃の土岐詮直,近江の京極秀満らもこれに同調した。99年10月,義弘は大軍を率いて和泉の堺に着き,和戦両様の構えで幕府と対峙したのである。上洛をうながす幕府の使者絶海中津の慰留を振り切って堺に滞留し謀反の決意を固めた。11月幕府は義弘討伐の本陣を東寺に置き,ここを管領畠山基国ら3万騎で固め,細川満之,赤松義則ら8000騎を先陣として発向させた。鎌倉公方満兼は,諸国に挙兵を呼びかけみずからも武蔵府中まで進軍したが,上杉憲定の諫言によってそれ以上西進できず,呼応した土岐,京極氏らも鎮圧された。12月21日幕府軍の総攻撃によって義弘は討死し,弟弘茂は下り,乱は終わった。防長2ヵ国守護職は弘茂に安堵されたが,後義弘の意を継承した盛見に替わった。応永の乱は,幕府・将軍権力確立過程での外様大守護の最後の乱であった。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「応永の乱」の解説

応永の乱
おうえいのらん

1399年(応永6)大内義弘がおこし,全国に波及した反室町幕府行動。周防・長門国などの守護だった大内義弘は,幕府の九州制圧を助け,北九州の実力者として朝鮮との貿易を進めた。91年(明徳2・元中8)の明徳の乱でも活躍して紀伊・和泉両国守護をかね,南北両朝の合体を周旋するなど,中央での勢力を強めた。義弘は,将軍足利義満による大内勢力削減の意図を察し,九州で少弐氏らを平定したのち,義満の再三の上洛命令に応じて,99年10月,大軍を率いて堺に到着,同地で反乱を決意した。11月,幕府は軍を進め,堺にこもった義弘は12月末に討死。この間,鎌倉公方足利満兼も反幕府行動をとるが挫折。美濃の土岐詮直(あきなお),丹波の山名時清,南朝系武士らの蜂起は鎮圧された。義満は,山名氏ほか足利一門以外の有力守護の勢力削減に成功,対外貿易の主導権もえたが,在国の義弘の弟盛見(もりみ)を鎮圧できず,周防・長門両国守護職を与えた。

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百科事典マイペディア 「応永の乱」の意味・わかりやすい解説

応永の乱【おうえいのらん】

1399年(応永6年)大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱。義弘は6ヵ国の守護を兼ね,朝鮮貿易で富をたくわえ,守護大名中最大の勢力を誇ったため将軍足利義満ににらまれた。義弘は鎌倉公方(くぼう)足利満兼らと結び堺で反乱,敗死。以後幕府の勢威は高まる。
→関連項目大内氏妙心寺

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「応永の乱」の意味・わかりやすい解説

応永の乱
おうえいのらん

応永6 (1399) 年 11月,周防など6ヵ国守護大内義弘が室町幕府に対して起した反乱。義弘は明との貿易により巨富をたくわえ強勢を誇った。そこで,将軍集権体制を目指し,大守護抑圧政策をとった3代将軍足利義満は義弘を挑発して,関東公方足利満兼と結んで和泉堺に挙兵した義弘を敗死させ,大内氏の力をそいだ。以後,幕府の勢威は大いに高まった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「応永の乱」の解説

応永の乱
おうえいのらん

1399(応永6)年,大内義弘が室町幕府に対しておこした反乱
義弘は周防 (すおう) ・長門 (ながと) など6国の守護を兼ね,朝鮮貿易で巨富を得,多くの戦功をたてて強盛を誇り,将軍足利義満と対抗した。1399年鎌倉公方足利満兼と呼応し,領国和泉の堺で挙兵,義満はみずから征討し,義弘は敗死した。明徳の乱('91)とともに,義満の守護大名抑圧策の一つで,これにより幕府の権力は確立した。

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